150年を迎える北海道ですから明治以前の蝦夷時代には関心がなかった。だからアメリカの血筋を引いた北海道などとお気楽に考えていました。ところが蝦夷時代の北海道に面白い歴史があったようです。
司馬遼太郎はそれを紹介しています。高田屋嘉兵衛です。彼のエッセー「北海道の諸道」の函館の旅のなかに出てきます。
「夜、街に出て宝来町で夕食をとった。その店の軒をくぐるとき、ふとふりかえると、坂ののぼり傾斜を背にして ーつまりは海に向かってー 銅像が立っている」と… (左の写真)
実は、高田屋嘉兵衛なる人物を描いた「菜の花の沖」は司馬遼太郎 60才晩年の著作です。2年9ヶ月(S54/4/1~S57/1/31) にわたりサンケイ新聞に連載された長編であります。
明治より100年遡って、明和6年(1769)生まれの嘉兵衛という淡路島が生んだ船頭の稀有な生涯を綴った物語であります。
司馬遼太郎は、歴史の探訪者としてその時代を訪ね歩いて、時空の旅を愉しませてくれるところがあります。
読者を見事に蝦夷時代の北海道に連れて行ってくれます。閉ざされた特殊な鎖国という時代、徳川幕府は北海道をどう見ていたのか?どのような支配をしていたのか?
原点は家康にあります。「夷の儀は、何方へ往行候共、夷次第たるべき事」とし、一粒の米も採れない地(石高のない地)を松前藩に封じて、重要視も監視もしなかった。
その松前藩は自らの領地を軽侮していた。アイヌに対して差配するものでもなく綏撫もしなかった。アイヌに対し支配権を持たないはずだった。アイヌは士農工商から外れた者のようだった。
また、松前藩自身は場所(管理地)にも責任も関心も持たなかった。
アイヌとの隔離政策をとって、場所の番人によってアイヌはけもののように酷使されていた。
また江戸後期、北前船という謂わばタンカーのような荷船は、経済の大動脈だった。米のみの農本主義をとった江戸時代の経済が大きく変わろうとしていた。
そのような時期に来て、世界は大航海時代を迎えていた。そして北海道にもロシアの船が来た。だが国家運営をおこなうはずの武士はというと、この時代変化を無視し続けていた。司馬遼太郎は江戸時代の武士をこのように見ています。
武士は一生年金生活者であった。有閑階級であり空論の徒で、賄賂役人という意味も含み、また責任のがれしか考えていない身分の渡世者をさす。 (まことに辛辣な表現であります)
税とは何か、こうした武士が吸い上げるようにしたある意味で「たかり」であった。 (今の日本の役人も変わっていません)
士農工商の頂上に立つ武士がこんなありさまで、底辺の商人はというと、ご禁制のなかで株仲間という大変なものがあった。その原理は封建制度そのもので、既得株の上に大あぐらをかき新興勢力の芽を摘み、追い落とすことだけにかかっているギルドでした。(一部 モリパパ修飾加筆)
江戸時代は鎖国によって自らを閉じ込め、ご法度とご禁制によってまことに変な国家であったと司馬遼太郎は繰り返し説明しています。こうした江戸時代に主人公の嘉兵衛は生きた。
嘉兵衛自身「自分は捨てられた民」だと思っているところから、この物語が始まっています。そこが面白い。
ある時代の常識は、その時代を離れて観てみると実に滑稽なものであります。常識は非常識と見えます。例えば、家族主義がそれです。
家族が中心だった江戸時代、世間の習わし(世故)、面目が立つ立たないといった価値観が中心でした。いまの現代の人からみると笑われてしまうようなことに生涯(価値観)をかけた訳です。
江戸時代をとおして、司馬遼太郎は「領土」についてこんな考えを披露しています。 版図と植民地のGapが江戸時代にあった。
版図という漢語は16、7世紀以降の西洋の概念でいう領土とはわずかに輪郭がちがう。
版は戸籍、図は地図である
西洋とはちがい土地を得るよりも、人民を畏服させたというところにこの語の語感があったかと思われる。
日本の俗語で言えば縄張りというようなところと近いであろう対人主義で対地主義ではない。
ヨーロッパでの領土という法概念はローマ法に由来するらしい
旧来アジア、中国では綏撫という中国的原理による植民地化であった。「貢物をもってこい。おまえたちが持ってきたもの以上に素晴らしいものを呉れてやる」というものである。
アイヌの生活圏は古来以来の地理的空間であって、対岸の大陸の向こうへも広がって、領土も版図もかたちが明確ではなかった。
ロシアの艦船が出没する時期、松前藩に捨て置くような支配方法は、幕府には出来ず1799年に松前藩を外し、蝦夷地を直轄の管理とした。
浦賀港にペリーが来る42年前にゴローニン事件(1811年)が起こった。海に囲まれた日本は常に海から事件が始まった。もっとも蝦夷は海からしか入れなかった。ここにロシア来航と北前船との接点があった。
フヴォストフの武力擾乱事件のため幕府は北狄攘夷の姿勢に硬直した。ゴローニン事件が解決したのは一年以上を過ぎた。
ゴローニン少佐以下を帰還させるべく、リコルド艦長と嘉兵衛との一年間を、記録と想像で司馬遼太郎が綴っている。
嘉兵衛の「人間外交」を前にして領土とは?、国家とは何なのか?を考えさせる。
ゴローニン事件の落着、すなわち北方の無事とともに、幕府は蝦夷地直轄について情熱を失い、事件落着後9年目の文政5年(1822)松前藩に戻してしまった。(幕末ならこんなオチにはならなかった)
そして箱館に殷賑を極め、函館を作ったと言われる「高田屋」も天保2年(1831年)4月5日に嘉兵衛が没するとともに没落した。
嘉兵衛は蝦夷地で何をしたのか?「菜の花が、青い沖を残して野をいっぱいに染め上げた」と司馬遼太郎は最後を結んでいる。
そして司馬遼太郎の命日(2月14日)を「菜の花忌」というそうです。
4中下旬となって函館にも菜の花が咲き始めただろうか?
時代を超え、時空を超えてみたときに、見えてくるものは人間でありましょう。
国家より、領土より経済より何よりも、何よりも人間を基点に考える大切さを司馬遼太郎は訴えていた。