老来たりて

吉田兼好は鎌倉時代末期の人で、42才で出家し、68才で没した。当時としては長寿であった。

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彼が、50才の頃(1330年頃)に徒然草を書いたようだ。
没後100年経って、ようやく1448年ころ室町時代の歌人(正徹ら)によって評価を得ました。江戸初期には広く、評価が定着しました。

その徒然草(第49段)

老来たりて始めて道を行ぜんと待つことかれ。古きつか多くはこれ少年の人なり。はからざるにやまいをうけてたちまちにこの世をらんとする時にこそ、始めて過ぎぬるかたあやれることはらるれ。誤といふは他の事にあらず。すみやかにすべき事をゆるくくしゆるくすべき事を急ぎて、過ぎにし事のくやしきなり。その時くゆともかひあらんや。

優先すべきこと何なのか、まず、それを知れ。まず、それをなせ。さもないと悔いを残す。 また、続いて(第188段)には、

或者あるもの、子を法師ほうしになして、「学問して因果のことわりをも知り、説経などして世渡よわたるたづきともせよ」と言ひければ、おしえのまゝに、説経師にならんために、先づ、馬に乗り習ひけり。輿こし・車は持たぬ身の、導師にしょうぜられん時、馬など迎へにおこせたらんに、桃尻ももじりにて落ちなんは、心憂こころうかるべしと思ひけり。
次に、仏事ぶつじの後、酒など勧むる事あらんに、法師の無下むげのうなきは、檀那だんなすさまじく思ふべしとて、早歌そうかといふことを習ひけり。二つのわざ、やうやうさかいに入りければ、いよいよよくしたく覚えてたしなみけるほどに、説経せっきょう習うべきひまなくて、年寄りにけり。
この法師のみにもあらず、世間せけんの人、なべて、この事あり。若きほどは、諸事しょじにつけて、身を立て、大きなる道をも成じ、のうをも附き、学問をもせんと、行末ゆくすえ久しくあらます事ども心にはけながら、世を長閑のどかに思ひて打ちおこりつゝ、先づ、差し当りたる、目の前の事のみにまぎれて、月日を送れば、事々ことごと成す事なくして、身は老いぬ。終に、物の上手じょうずにもならず、思ひしやうに身をもたもたず、ゆれども取り返さるゝよわいならねば、走りて坂を下るの如くにおとろへ行く。
されば、一生のうち、むねとあらまほしからん事の中に、いづれかまさるとよく思ひくらべて、第一のことを案じ定めて、そのほかは思ひ捨てて、一事いちじを励むべし。一日のうち、一時のうちにも、数多あまたの事のらんなかに、少しもやくまさらん事をいとなみて、そのほかをば打ち捨てて、大事だいじを急ぐべきなり。何方いずかたをも捨てじと心に取りちては、一事いちじも成るべからず。
例へば、を打つ人、一手もいたずらにせず、人に先立さきだちて、しょうを捨てだいくが如し。それにとりて、三つの石を捨てて、十の石にくことは易し。十を捨てて、十一にくことは難し。一つなりともまさらんかたへこそくべきを、とおまで成りぬれば、おししく覚えて、多くまさらぬ石にはがたし。これをもてず、かれをも取らんと思ふ心に、かれをもず、これをも失ふべきみちなり。
京に住む人、いそぎて東山に用ありて、既に行き着きたりとも、西山に行きてそのやく勝るべき事を思ひ得たらば、かどより帰りて西山へ行くべきなり。「此所ここまできぬれば、このことをばひてん。日をさぬ事なれば、西山の事は帰りてまたこそ思ひ立ため」と思ふ故に、一時の懈怠けだい、即ち一生の懈怠けだいとなる。これをおそるべし。
一事を必ずさんと思はば、ことやぶるゝをもいたむべからず、人のあざけりをもづべからず。万事にへずしては、一の大事成るべからず。人の数あまたありける中にて、或者、「ますほのすすき、まそほのすすきなど言ふ事あり。渡辺のひじり、この事を伝へ知りたり」と語りけるを、登蓮とうれん法師、その座にはんべりけるが、聞きて、雨の降りけるに、「みの・笠やある。貸し給へ。かのすすきの事習ひに、渡辺わたなべひじりのがり尋ねまからん」と言ひけるを、「余りに物騒ものさわがし。雨止みてこそ」と人の言ひければ、「無下むげの事をもおおせらるゝものかな。人の命は雨の晴れ間をも待つものかは。我も死に、ひじりも失せなば、尋ね聞きてんや」とて、走り出でて行きつゝ、習ひ侍りにけりと申し伝へたるこそ、ゆゝしく、有難う覚ゆれ。「ときは、則ちこうあり」とぞ、論語と云ふ文にもはべるなる。このすすきをいぶかしく思ひけるやうに、一大事の因縁をぞ思ふべかりける。

さてさて、人生の総仕上げのために、優先してやることがあるではないか。
池田先生は言っている『人生の一大事とは、何か。それは、永遠に崩れない、絶対的幸福をつかむことだ。嵐にも揺るがない、不動の自分を築くことだ。その根本の力は、妙法である。
妙法を唱え、広めて、自分も、人も、幸福になる。全人類の宿命を転換する。それを広宣流布という』
(2006年8月21日付け聖教新聞、徒然草と恩師の指導を語る より)

老来たりて、解ることがある。これからが本物の人生だ。

そして徒然草(第85段)にこうある。

人の心すなほならねば、偽りなきにしもあらず。されども、おのづから、正直の人、などかなからん。おのれすなほならねど、人のけんを見てうらやむは、尋常なり。至りて愚かなる人は、たまたまけんなる人を見て、これをにくむ。「大きなる利を得んがために、少しきの利を受けず、偽り飾りて名を立てんとす」とそしる。己れが心にたがへるによりてこのあざけりをなすにて知りぬ、この人は、下愚かぐの性移るべからず、偽りて小利しょうりをも辞すべからず、仮りにもけんを学ぶべからず。 狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人あくにんの真似とて人を殺さば、悪人あくにんなり。を学ぶはたぐひ、しゅんを学ぶはしゅんともがらなり。偽りてもけんを学ばんを、けんといふべし。

そして「愚人のまき散らす、つまらなぬ文句に左右されることほど、愚かなことはない。自ら信じた道を、正義の道を、堂々とすすめばいいのである。」(2006年8月21日付け聖教新聞より)

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