戦後間もない昭和23年(1948年)のことです。歌人の川田順 (68才)が、弟子の鈴鹿俊子(39才)との不倫の恋に苦しみ、自殺未遂を起こした。いわゆる“老いらくの恋”と騒がれた事件です。後に27才の年齢差を超えて、二人は結婚しました。
「若き日の恋は、はにかみて、おもて赤らめ
壮士時の四十路の恋は世の中にかれこれ心配れども
墓場に近き老いらくの恋は、怖るる何ものもなし」
と詠んだことから生まれた「老いらくの恋」です。
もともと、川田順は住友本社常務理事だったのですが、54歳のとき、総理事の座を目前に退職し、歌の道に入ってしまいました。
司馬遼太郎は、川田順についてこんなことを書いています。
歌人の川田順は明治40年の帝大法科の卒業で、のちの住友コンツェルンの常務理事になる。その回想録によると、彼のような学歴の者が住友に入ったのは彼が最初であった、という。
入社当時の川田順の驚きは、住友の番頭、手代たちが和服と前垂れ姿で帳場で働いていた光景だった。
彼は官吏や外交官になった友人のようにセビロを勤務服にすべく神戸へ行って注文したというのである。
こんにちの日本の大企業が、定期採用によって採る社員の元祖は住友に関する限り川田順であったろう。
東宮侍講 川田甕江の三男だった彼は、住友に入ったものの、旧来のデッチになったつもりはないはずで、江戸期の武士意識を引き継いだと見たほうが常識的でいい。(「アメリカ素描」より)
川田は、やがて東宮御作歌指導役になりますが、58歳のとき妻、和子と死別。翌年、京都に「夕陽居」を新築し、移住します。
余生をひとり気ままに、歌作研究を楽しむ予定だったのです。
しかし、62才のとき、歌の弟子で美しい人妻 俊子と知り合います。俊子は35才。年齢差は親子ほども違い、27才もありました。
でも、川田は一目惚れ、愛を告白(65才)、恋に苦しんで、自殺未遂(68才)の事件となりました。
愚かと言えば、愚かですが、愚かであるからこそ、人間の深さ、奥行きを感じます。そして川田順は、こんな歌を残しています。
- いつよりか君に心を寄せけむとさかのぼり思ふ三年四年を
- 樫の実のひとり者にて終らむと思へるときに君現れぬ
- 吾が髪の白きに恥づるいとまなし溺るるばかり愛しきものを
- むらさきの日傘すぼめてあがり来し君をみれば襟あしの汗
- はしたなき世の人言をくやしとも悲しとも思へしかも悔いなく(俊子)
その後18年、川田は84歳(1966年)で他界しました。俊子は98歳(2008年)で亡くなっています。