嫌老社会だと?

作家 五木寛之はもう85才にもなります。これほどの老作家の言う事なら何かあるのではないかと思って、「嫌老社会を超えて」という本を手にしてみました。
実は、この本、題名からして不評を買い1年半の後、「孤独のすすめ」と改題され、大幅加筆訂正され再出版されています。

嫌老、厭老、はたまた老醜などと、実にいやなイメージに落ちます。これこそヘイトスピーチです。

老いることは、嫌がられることなのでしょうか?老いは醜いものでしょうか?
孤独になる老いを恐れる人は多いし、体も思うように動かず、外出さえ億劫になりがちで、訪ねてくる人もいません。なかには何もすることがなく世の中から取り残されたような、寂しく不安な日々。これが「老い」だと思う人も多いのです。五木寛之もこれに囚われた人です。
逆手に取ったとこで、「孤独」だからこそ豊かに生きられる。「孤独のすすめ」といわれても、どうも期待できません。
「嫌老社会を超えて」の中から、所々を引用してみましょう。

  • 経済成長がストップし、人口が減少モードになるなど、明らかに下り坂の局面に入った日本。その国が、このまま嫌老社会の入り口にあることを「自覚」せずに歩んでいくならば、それはやがて広範な「嫌老ヘイトスピーチ」に転化し、「老人階級」とそれ以外の世代との、シビアな「階級闘争」を呼び覚ますかもしれない、というのが私の考えたことでした。
  • 若年世代を中心にルサンチマンの情動、すなわち「金食い虫」の高齢者世代に対する強い憎悪、嫌悪感、拒否感が芽生え、蓄積していくことでしょう。
  • 嫌悪意識は、少なくとも今のところは「プレッシャー」を抱える社会の背後に無意識に広がる潜在意識なのです。
    くどいようですが、怖いのは、そんな潜在意識が潜在意識のまま増殖を繰り返し、ある時、社会の表層に止めどなく溢れ出てくること。「嫌老ヘイトスピーチ」が、誰はばかることなく、拡散していくような状況です。
  • 最後にあらためて述べておきたいのは、深刻な嫌老社会を招くか招かないかのカギは、やはり私たち高齢者自身が握っているのだろう、ということです。

五木寛之の言を借りれば、「そこで欠かせないのが、精神の自立ということです。中でも、これから重要になってくるのは、生死観の確立ではないでしょうか『いかに生きるべきか』に答えを出すのが文学や思想ならば、『どのように逝くか』を突き詰められるのは、宗教の力だと思います。」とも言っているのですが…

どうもこれも違います。「いかに生きるべきか」は「いかに逝くか」の答えでもあります。生死観は「生」「死」ともに通ずる生命の哲学でなければなりません。人生は、どのステージもかけがえのないものです。
人生総仕上げの老後というステージもかけがえのない人生の一つなのです。

学校で学習する世代(時代)も、結婚し家庭を持ち子育てする世代(時代)も、退職し老人として過ごす世代(時代)も等しくそれぞれが、かけがえのない世代(人生)だということです。
社会人となるために教育期間があるのではありません。同様に、老後は現役を退いた残滓のような人生ではありません。
それぞれの人生のステージは、かけがえのないものであります。人生には無駄なものはありません。

まるで熟成したワインのように、味わい深くなる老後です。また、交響曲の第4楽章ような演奏にも似たところがあるのが老後です。

人生の苦楽を味わうから解るのが、人生です。だから、同じ小説を読んでも若い人より深く味わうことができます。老後は豊穣で深い人生の絶好の機会なのです。
苦楽を超え「ブラボー わが人生」といえる老後こそ最高でしょう。

「あんな年のとり方をしたい。」「年をとったら、ああなりたい。」といった老後でありたい。老後の生き方にも使命感を持って、生き切ってみたいものです。
その秘訣は、安っぽい方法論などではありません。そこには宗教的信念があり、宗教的な実践があって、到達する老後なのです。