さぁ、老後に備えよう!

この記事は3年以上前に投稿された古いものです。

現役の世代の話ではなく、初老の者が味わう、老後の備えであります。先の稿「老人ホームについて」の続編のひとつとして書いています。この年になってみないと書けないことが多いから。

身体的衰えは、気持ちも変えるようです。例えば、若い時は歩くことに気にも止めませんが、一度転んで捻挫すると、誰も用心深くなります。
そのうち手すりや杖の必要性を感ずるようになってくるでしょう。

新聞のコラム欄に劇作家:横山拓也がこんなことを書いてました。

私の父は、一般的なサラリーマンだったが、定年を過ぎて突然カメラを始めた。男性には「マシン」が好きな人が多く、父もそうで、最初はカメラそのものへの興味だった。それが、3年くらい経ち、撮った作品を見るにつけ「カメラ」から「写真」そのものへ意識が向いてきたような気がする。父の意外な一面を知った。何せ、父は私が芸大に進学することに、もっとも反対した人物だったから。
生活の中にアートが顔をのぞかせると、人生が少し華やぐ。

どうやら自分もその類やも知れないと思い、最近始めたカメラと写真撮影に自ら頷いてます。生活にアートとまではゆきませんがトリカメ(鳥とカメラ)はすっかり趣味となってきました。

トリカメは、予定が無いようでそれなりに有ります。
その季節、その時間帯にしかチャンスがないことがあるのです。無理をせず自分の体調を考えながら、現役時代とは異質な予定で動くようになってきました。

生物の一生には、成長期と繁殖期しかありません。ところがヒトには、老後という贅沢な期間があります。

「動的平衡」を説いた生物学者福岡伸一はなぜヒトだけに「長い老後」があるのか?で、これを老年的愉悦だと断じています。

つまり「老いる」ことは衰えというよりも、さまざまな制約やしがらみから脱し、より自由になるということなのだ。
これから老いを迎えようとする人は何も心配する必要はないし、老いの最中にある人はますます自由になればよい。
この老年的愉悦を若い人にわざわざ教えてあげる必要はないし、教えてもたやすく感得できるとは思えない。
けれどもほんの少しなら未来の予感として分け与えることができるかもしれない。それは回り回って、巡り巡って、種の存続に何らかの貢献を果たすかもしれない。
そうだとすれば、これもまた「老い」ゆく私たちの生物学的存在意味かもしれない。

何も「生物学的存在意味」まで深堀りする必要もありませんが、ヒトが他の生物と決定的に違うところは「老後」であることに間違いありません。しかし、その自由(老年的愉悦)と引き換えに、身体的に衰えが始まります。

鳥のように羽ばたける訳でもありませんが、自由な老年的愉悦だと楽しんでるほど幸せなもはないかも?

 

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