大正デモクラシイー

明治維新の残滓ざんしとでも言おうか、薩長土肥によってほしいままにあった明治政府を、近代国家として憲法や選挙による体制を築く「日本で最初の民主主義が始まった時期」と言ったら良いでしょうか?大正デモクラシイーと呼ぶ時代は、原敬はらたかしによって代表されます。

デモクラシーの訳語が民主主義と定着したのは第二次世界大戦以降のことです。それまでは民本主義とか平民主義と呼ばれていました。新渡戸稲造はDemocracyの訳を平民道と唱えていました。

稲造は、原敬の平民宰相(1918~1921)を意識して平民道としたのかも知れません。『実業之日本』に「デモクラシーの根底的意義」(1919.1.1)デモクラシーの要素(1919.2.1)「デモクラシーの主張する平等論」(1919.3.5)平民道(1919.5.1)など、稲造は民主主義を政治的な制度としてではなく、道徳的、倫理的なものとして捉えていたようです。(参考:大正期における新渡戸稲造のデモクラシー論)

原敬
平民宰相 原敬 胸章はなくコサージュです

どんなことを意識したのでしょうか、原敬は生前4度も爵位を固辞し、更に遺言で「爵位を受けないよう」と念を押していました。

当時、総理大臣の選考方法は現代と大きく異ります。まず元老の会議で候補者を決めて天皇に推薦し、天皇が推薦された人に組閣の命令を下す仕組みでした。

これまでは薩長出身者か公家(貴族)が総理に就任しており、これ以外の者が総理となったのは原敬が始めてです。原啓は、数えて19代目の総理、10人目の総理大臣です。

総理大臣に原敬が決まった経緯は、次の通り、元老の苦肉の策から生まれました。

第14回衆院選後の勢力図

第14回衆院選は、国税3円以上を納める男子に拡大され、立憲政友会の圧勝が予想されていました。元老の山縣有朋は総理の人選に苦慮した末に、西園寺公望を奏請したのです。
愈々、寺内内閣が辞意を奉呈し、一旦は西園寺に組閣の大命が下ったのですが、西園寺は固辞してしまいます。
そして、西園寺は原敬を推薦したのです。政党内閣を望まなかった山縣も時局収拾するには、原敬以外にないと認めざるを得なくなり、ここに始めて政党内閣、原内閣ができあがりました。

大正デモクラシーは、一般的には1905年(M 38)~1931年(S 6)までとして把握されています。立憲政治や政党政治が実現し、社会運動が活発化した時期でありました。
それは即ち、日清戦争[1894(M27年)7/25~1895(M28年)3月]、日露戦争[1904(M37)2/8~ 1905(M38)9/5] を経過した時期にあたり、日本全体が「一等国」になったと沸いていた頃の時代だったと言えます。

小説「坂の上の雲」は軍事版ですが、その頃の政治版が「大正デモクラシー」なのであります。
しかしそれは、満州事変1931(S6)、上海事変1932(S7)へと一挙に戦争の時代に突入し、戦争時代への入口でもありました。

原敬は賊藩の盛岡藩士、星亨は江戸の易者の子、後藤新平も賊藩の水沢の貧乏武士、新渡戸稲造も賊藩の盛岡藩士、小村寿太郎も日向の下級藩士の出自です。大正デモクラシーは維新以前に生まれた極一部の優秀な人たちによって彩られた時代でもあります。

原敬、東京駅丸の内の暗殺現場

見事、藩閥体制や元老政治を転覆することができたのですが、原敬を始め、凶弾に倒れてた人が、実に多かったのも事実で、暗殺やテロの時代でもありました。

民度という言葉は古臭い言い方ですが、民度の伴わないデモクラシーは単なる制度に終わってしまいます。そういった意味で、大正デモクラシーは倫理的で情緒的な動機から発し、政党内閣を実現したが、民度が低かった。日本的な民主主義はこうして産まれました。

大正デモクラシーは原敬の内閣を頂点として終わりを告げます。
残念ながら史実は動きません。
大正デモクラシイーがなぜ戦争の時代へ扉を開いて行ったのか?

(戦争は)ファシズムが無理矢理に「国民」を引きずり込んだのではなく、人びとの考え方が排外主義に傾いて「満州は自分達の領土だ」と思い、そのことをとりこむことによってファシズムが成立していく、ということです。「大正デモクラシー」の過程で成立し、人びとの意見を吸い上げるシステム(その制度化が、普選ですが)によって、戦争の時代になったと私は考えています。「大正デモクラシー」があったが故にファシズムに向かい、戦争の時代になったのです。
「大正デモクラシー」はどうして戦争を止められなかったのかより引用

それは(体制への)抵抗の運動ではなく、(体制への)翼賛の運動になったところに原因を求めることができます。

今のポピュリズムを危険に思うのはこんな理由からです。ポピュリズムが、戦争の原因を作ったと言っても過言ではありません。こうした翼賛運動にジャーナリズムが加担した責任は極めて重いものがあります。

新渡戸稲造は愛媛松山で「日本国を滅ぼすのは、共産党と軍閥だ」と発言し、舌禍事件を招きました。[1932(S7年)2月]
ジャーナリズムからの攻撃に対し、東京牛込の在郷軍人会本部評議会で陳謝させられることになってしまいました。
しかし、後の歴史は、彼の発言を証明することとなってしまいました。

 

以前より、一度まとめておかなくてはと思いながら、遣り過してきたタイトルです。なるべく簡素に纏めたつもりですが…