伊予松山の水野広徳

とてもおもしろい時代があった。明治末期から司馬遼太郎の『坂の上の雲』の頃、場所は伊予(愛媛)松山が舞台だった。
明治維新は下級武士にとって過酷だった。その家族は路頭に迷った。また、その子息は実に可愛そうな運命を余儀なくされた。

『坂の上の雲』に出てくる秋山兄弟も正岡子規も同時代の人間だったし、あまり世に知られていないが水野広徳(1875年生まれ)櫻井忠温も同時代、伊予松山の出身であります。

日清戦争(1894年)、日露戦争(1904年)、そして大正デモクラシー(1910年~20年代)、四国は伊予松山に育った下級武士の子ども達が演じた歴史は、初々しさを感じる時代だった。

水野広徳
反骨のジャーナリスト 水野広徳

水野広徳 自身が「最も会心の作なり」と評した『戦影』(旅順海戦私記・1914年出版)に、秋山真之が序文を寄せているが、何故か採用されていない。
彼らは同郷で、親戚のような関係だった。

戦記物は、戦争の丈夫ますらおぶりに人々を興奮させた。水野の『此一戦』もベストセラーとなった。日露海戦史編纂の公務の傍らで、執筆されたものだった。櫻井忠温が著した陸軍の旅順戦記『肉弾』の後塵を配したが、忽ちに大反響を呼んだ。当時日本は戦勝気分に高揚し、こうした戦記物が流行した。

水野はこの印税でT5年から2年(1916~18年)、海軍の許可をもらって欧州へ私費留学に出ている。その留学先で見たのは、第一次世界大戦(1914~18年)の惨状であった。これに彼は衝撃を受けた。

2度目の欧州視察(1919~20年)から帰るや、意見を大きく変える。「日本は如何にして戦争に勝つよりも、如何にして戦争を避くべきかを考えることが緊要」だと加藤海軍大臣に訴えた。

同じ頃、欧州を視察していた永田鉄山(1884年生まれ)とは意見が天地ほどに違います。
満州国を建設し、アジアの覇権を夢見て、自国のことしか考えなかった永田等は、満州事変(1931年)を起こし、そして日本を「戦争の時代」へと突き落としてしまった。

水野は若き頃、日露海戦でハシケのような水雷艇に乗り込み勇猛果敢に敵艦に突撃した海軍艦艇長でした。
その軍人水野は、第一次世界大戦後の欧州を見て、変節というか意見を180度転向してしまいました。
海軍大佐を辞して、後に「反骨のジャーナリスト水野広徳」と言われるような生き方をしてゆきます。

水野は海軍を辞めた後、無謀な太平洋戦争を痛烈に批判し、戦争に決然として反対し、その言説を終生曲げることはなかった。

松山 正宗寺[松山市末広町16-3]墓の歌碑

彼の墓誌に『世にこびず 人におもねらず、我は、我正しいと思ふ道を歩まん』と刻まれています。
今日、10月18日が水野の命日だった。勇気あるジャーナリストがいたことを忘れてはいけない。

私事ながら伊予松山の出身者というと、新田某なる人を思い出します。会社の中では「鬼軍曹」と恐れられ、この部長の前で叱られない者はいなかったし、歯向かった者は何人も会社を去って行った。若い頃のことだったが、その鬼軍曹の前で公然と意見したことがあります。もう会社を辞めるつもりで歯向かった。
仲立ちして取り持ってくれた松永某という先輩がいて、馘首くびにはならずに済みました。実はその後、新田某に可愛がられた。
仲立ちをしてくれた松永先輩には生涯のお付き合いとなり、その後も大変にお世話になりました。

横道にそれてしまった。松山というと道後温泉しか知りませんが、伊予松山は骨のある人材が出る処なのでしょうか?