ジャーナリズム

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ジャーナリスト柳瀬光一は、法の支配も民主主義といえども「確かなもの」とはいえない。国民の意思と力が再び試されている。といっています。強大な権力と戦ってきたジャーナリズムだから、いまの情況を敏感に感じ取っているのかもしれません。

ジャーナリズムは、フォースエステート(the fourth estate)であり、民主主義を構成する第4権力だという人もいます。
ジャーナリズムの収集力、編集力、整理力、解説力、論説力は、行政、立法、司法さえも揺り動かす存在だと言うわけです。

いま、米国トランプ大統領のロシアゲート疑惑をみても、大統領の権力さえ、地位を脅かされるのです。Twitterでフェイクニュースだと反論しても、簡単にはおさまりそうにありません。

一方で、ジャーナリズムはメディアを通し偏向報道があったり、暴走、熱狂を煽ったりします。ゆえに権力側もメディアを操ろうと懸命になります。

小泉政権のメディア操作、イラク戦争の大義なき戦争を間違って報道してしまいました。「権力というのは一般に暴走しやすい」し「世論もまた熱狂しやすい」ものであります。

立花隆が絶賛する「言論死して国ついに亡ぶ」(前坂俊之著)は、太平洋戦争前夜の1936年(昭和11年)から終戦の1945年(昭和20年)までの、ジャーナリズムの実態を暴いています。

前坂俊之はあとがきにこのように書いています。

戦争も一度に起こるものではない。問題は戦争が始まってからではなく、戦争に至るまでの一歩一歩の過程で、ジャーナリズムがどれだけ歯止めをかけ、抑止力を発揮したかである。

最も大切な時に自ら放棄して恥じず、益々彼等を誤らしめたその無気力、生きんがための売節の罪を見逃してはならぬ。

と書いています。「新聞は過誤の本質は不可抗力で、われわれは国民と共に被害者だ」うそぶくようなジャーナリズムがいかに横行していたことか。

水野広徳

それに比べ、水野 広徳ひろのりの潔さが際立ちます。
「軍閥が日本を滅ぼすことを的確に見抜き、日米戦うべからず、戦えば必ず敗れる。と一貫して軍縮を訴えたジャーナリストは水野ただ一人といって過言ではない。」と…前坂は紹介しています。

水野は言う「軍人は好戦の危険があるが故に、之を政治の外に隔離せねばならぬ。軍人に政権を与うるは、あたかも火鉢のかたわらに火薬を置くと同様に危険である」と。

ブログ「酔いどれJhonny」より

水野は海軍大佐まで登ったが47才のとき東京日日新聞に「軍人心理」を寄稿し、一転平和主義を唱えるジャーナリストへ転向した人物です。
郷里今治で、終戦の年10月、72才で没しました。彼の墓には右のような歌碑が建てられています。
世にこびず 人におもねらず 我は 我が正しいと 思う道を進まん

水野以外に、ミニコミ誌「他山の石」の桐生悠々など、ジャーナリストの矜持きょうじを見るようで、清々しさを感じます。

それに比して売り上げ部数を気にして、殆どの新聞社は軍部の統制下に下ってしまいました。朝日も、読売も、毎日も戦犯とまで言いませんが、前科者です。

さて今日、TVやSNSが普通になった現代で、ジャーナリズムの役割は大きくなってます。溢れる情報の整理、解説、殊に論説力が望まれるようになっています。池上彰の番組が良い例でしょう。
何が正しいのか、何が重要なのか、複雑に絡み合った事実を簡単には理解できなくなってきています。
そうした中でのジャーナリズムの責任は益々重いと思います。

一方で我々大衆にも、本質を見抜く力が、問われて来ています。創価学会員にとって、1970年(S45)の「言論・出版問題」を忘れることができません。それは藤原弘達の『創価学会を斬る』といった著書の出版予告から始まりました。そして、国会で公明党と創価学会の関係は政教一致ではないかと批判された事件でした。
しかし、我々はこの一連の事件で憲法20条では「国は宗教に対して中立の立場をとり、宗教に介入してはならないことを示したものであり、宗教団体の政治活動を禁じたものでは決してない。それは戦前、戦中の国家神道を国策とした政府が、宗教を弾圧してきた歴史の反省のうえに立って、信教の自由を保障するために作られた条文」(『新・人間革命』第14巻烈風 p250)、ということを確認することになりました。むしろこの事件で狂ったように連日、ジャーナリズムに扱われたのですが、その本質を観破ることができました。
「嫉妬は常に正義や良心の仮面をかぶって登場する」(山本夏彦)というが、公明党の衆院選47議席(前回25)確保という、大躍進への中傷攻撃でした。こうした口惜しい体験をしないと、我々大衆はジャーナリズムを見抜く力を養うことができません。

ジャーナリズムとは縁なかった者ながら、少し勝手なことを書きすぎました。しかしメディア嵐の中、正義を叫ぶことは我々大衆の役割でもありますから。

最後に山本夏彦の言葉で終わります。
「私はジャーナリズムを嫌悪し、かつ軽蔑しながらなお長年そのなかで衣食してきたものである。だから、せめて自分でも信じないことは書くなと言いたい」平成元年1月26日  

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