生死観について

生死一大事血脈抄(御書p.1337)には、このようにあります。

天台の止観に云く「起は是れ法性の起・滅は是れ法性の滅」云云、釈迦多宝の二仏も生死の二法なり、

御義口伝(御書p.724)にも、法性に関しこのようにあります。

自身法性の大地を生死生死とぐり行くなり

仏法では生命は永遠であり、生死は不二であると説く。死は単なる「生の終わり」ではなく、「新たな生への出発」なのである。ゆえに、そこに悲愴感はない。(聖教新聞2018年8月8日の社説より)

誠に、生死観が定まらなければ、また生死を正しくわきまえることが出来なければ、人生の意味・意義をも見つけることは出来ません。
極論すれば、生死観を離れて平和・文化・教育という理念も何も一切を語ることは出来ないのです。

生命いのちは、ある一面で「生」であり、ある一面で「死」であります。どちらも同じ生命なのです。厳然と生命いのちは存在しています。
だから、歓喜の生命せいめいは、生にあっても歓喜、死にあっても歓喜です。生死しょうじ共に歓喜なのです。

その根本である太陽の仏法が昇れば、ひとたび太陽が昇れば、
満天に輝く星々も一瞬にして消えてゆくように。

創価学会は、仏法の精髄中の精髄たる「師弟の宗教」に生き抜いてきました。「人間の宗教」を末法悪世に復権し、そして「民衆仏法」の真髄を地球規模で展開している創価学会に、世界の識者たちが信頼を寄せ、21世紀の希望を託しています。(大白蓮華2018年8月号「世界を照らす太陽の仏法」 P.45より)

その根本である太陽の仏法が昇れば、ひとたび太陽が昇れば、 満天に輝く星々も一瞬にして消えてゆくように。[ 姪からもらった、富士山頂での写真(2018年8月3日早朝) ]

 

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