民衆仏法のために覚悟の信心で

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大白蓮華に連載されている池田名誉会長 講義”世界を照らす 太陽の仏法”10月、11月号に、「聖人御難事」の御書講義が連載されました。

さて「聖人御難事」については、日蓮大聖人の「出世の本懐」について示された御書で、

不惜の弟子たちの戦いによって、民衆仏法が確立されたことを示された凱歌の一書

であります。 今年(2015)1月29日会則改正が発表され、その「教義条項改正に関する解説」(聖教新聞1月29日及び2015年4月号大白蓮華 p.89掲載)に、「出生の本懐」について以下のようにあります。

聖教新聞 2015.1.29
聖教新聞 2015.1.29

これまで、創価学会は、日蓮正宗の解釈に基づき、「弘安2年のご本尊」を日蓮大聖人の出生の本懐としてきた。その根拠は、「聖人御難事」の「余は27年なり」の一節であった。しかしながら、この両者を結びつける解釈は古い文献にはなく、あらためて「聖人御難事」そのものを拝して。大聖人が教示されている出生の本懐の意味について考察しておきたい。(教義条項改正に関する解説より)

…と日蓮大聖人の「出生の本懐」について解説されています。「本門の本尊」が明確になったことについては、2014年11月8日投稿したので割愛しますが、「聖人御難事」は重要な御書です。
この聖人御難事が書かれた当時、熱原の法難の当時はどんな状況だったのか?

「まことの時」に、いかなる信心を貫き通せるか—。
特に、竜の口の法難の直後、鎌倉の門下に迫害の嵐が吹き荒れた際には「1000人のうち999人は退転してしまった」(御書p.907 通解)と大聖人は仰せです。また、「あるいは身は堕ちなくても心は堕ち、あるいは心は堕ちなくても身は堕ちた」(同p.1181 通解)とも、述懐されています。(10月号p.34)

壮絶であります。このような時代背景を理解できるでしょうか?
「まことの時」に、いかなる信心を貫き通せるか—。

したがって、大聖人の「出生の本懐」は、この末法において、万人成仏を実現する法を説き、成仏の道を確立されることです。大聖人はその法とは、法華経の本門寿量品の文底に秘されていた南妙法蓮華経であると覚知し、説き出されました。
民衆救済の誓願を成就
若き日に立てられた誓願の成就こそ、大聖人のご生涯の根本目的です。(10月号p.37)

これを、宗門は弘安2年御図顕のご本尊であると、狭義で誤った解釈をしてきたのです。
全てのご本尊は「法華弘通のはたじるし」です。

民衆仏法とは、法華経の万人成仏に基づき、すべての人々の尊厳性・尊極性・平等性を十全に開花する思想です。その主役を担うのは、人間から離れた超越者ではなく、現実の世界の中で、社会の中で、地域の中で実践を繰り広げる法華経の師弟です。弟子も、師と同じ実践を共有し、目覚めた民衆を一人でも多く誕生させていく。いわば、民衆仏法とは、使命を自覚した民衆自身が主役となり、民衆の勝利を開きゆく「人間の宗教」なのです。(10月号p.38)

日蓮大聖人の「出生の本懐」はここにあります。

さあ、人間勝利の黄金時代へ!本格的な弟子の戦いの本舞台が始まりました。(10月号p.41)

”本格的な弟子の時代”、ここが民衆仏法の謂れです。

広宣流布のために、恐れなく道を開いてきた師匠の心が「師子王の心」です。その心と不二になれば、我が生命に「師子王の心」が湧現しないわけがない。(11月号p.33)

また、大聖人は書経の王である師子王となぞらえています。そして、「遊行して畏れなきこと師子王の如くなるべし」(御書 p.1124)と仰せの通り、法華経をたもった人には、何も恐れず悠然と振る舞う師子王の境涯を開くことが出来る。したがって、師子吼の題目の前には、「いかなる病さはりをなすべきや」(同㌻)なのです。(11月号p.34)

勝利を決して行く一切の根幹は、我が心がやぶれないことです。「心こそ大切」です。心の勝利者が、人生の勝利者となるのです。(11月号p.34)

ここに仏法は勝負との深い意味を感じます。日蓮仏法は民衆仏法であるが故に、個人にとって、祈れば何とかなるだろうとか、そのうち何とかなるだろうとか、心の甘えを認めません。
どこまでも自立であり、屹立とした自己の確立であります。

昨日まで、どんなに頑張っても、慢心を起こせば、魔に付け入るすきを与えてきます。魔の狙いはともかく精進を忘れさせて、広宣流布の流れを停滞させ、破壊することにある。
それに勝つには日々精進、日々挑戦、日々向上していくしかない。—と、私は、共戦の共に強く訴えたのです。(11月号p.36)

「これでいい」といった信心はないと、先輩からもいわれましたが、ここが信心の姿勢です。非情に難しいところなんです。不退転の決意は「日々精進、日々挑戦、日々向上」しかないのです。

牧口先生の殉教も、三世の眼で見るならば、学会の永遠にわたる大発展の因を刻み、世界の広宣流布と、民衆の幸福と平和の連帯への道を開いてくださったのです。
大聖人は、「ただ一えんにおもい切れ・よからんは不思議わるからんは一定いちじょうとおもへ」と、弟子たちに「覚悟の信心」を促し、励まされています。(11月号p.38)

日蓮大聖人の壮絶な闘いの人生、牧口先生の殉教、戸田先生、池田先生の人生、どれをとっても壮絶な迫害との闘いでした。それに続く自分自身なんです。
「覚悟の信心」が無ければ、貫き通せないのがこの仏法なのです。これに続く自分です。安逸な人生であるはずがありません。

結局、退転者に共通するのは、「根本とすべき法が中心」ではない。「その法を教える師が中心」でもない。「自分が中心」だという点です。「自分本位」の増上慢であり、結局、恩知らずです。それが退転者の本質です。

最後に、先生は「でも退転するな!」と言い残されています。
誰のことでもありません。あなた自身のことです。自分自身のことであります。
自分自身の人生を以って、この民衆仏法をさし示していくのが、我が使命、創価の師弟の本舞台なんです。さあ!合言葉は前進!