今年(2023年)も新年気分がそろそろ終わりかけた頃、沖縄返還50周年のニュースに触れそんなに時が経ったかと感慨深く思った。
沖縄返還の翌年1973年2月に沖縄・石垣島へ土壌調査で行った。まだ24才だった。沖縄は日本になったばかりで印象的だった。
沖縄・那覇は米軍基地の街で、当時色んな規制が敷かれていた。学生だった私を歓待してくれ、沖縄の人から特別扱いされたことに、気恥ずかしい気分を味わったことを思い出します。
那覇から石垣島まで南下すると、そこは2月とは思えない陽光で、終日半袖で過ごせる暖かさだった。
「新・人間革命」第19巻の”虹の舞”の章の舞台は1974年2月だった。自分が沖縄・石垣島へ行った翌年のことであります。
山本伸一の沖縄訪問は7度目。本土返還後はじめての訪問となり、また石垣島や宮古島への訪問もはじめてのことだった。
「新生・沖縄」とある通り、本土返還の直後は訪問する側も、迎える側も新鮮だった。
広布第2章の新生・沖縄は本土復帰から、創価の歴史を刻んだ。
”虹の舞”の冒頭の書き出しの部分には…
(前略)我欲と保身と嫉妬に狂う人の世の現実は、あまりにも冷酷である。人の心は弱く、移ろいやすい。
しかし仏法の眼を開けば見えるはずだ。すべての人の胸中に宿、尊極無上なる生命の宝玉が!そこから発する、慈悲と勇気と創造の光彩が!
若かった頃、土壌調査ではじめて訪れた沖縄・石垣島で驚くような光景を見た。平久保地域の洞窟の中に無数の髑髏を見た。
白骨化した牛馬の骨ならともかく、まぎれもなく人骨であった。案内をしてくれた役場の人の話では、昔しマラリヤで隔離された人が亡くなったものとのこと。戦争ばかりではない悲惨な歴史を抱えた沖縄の一端を垣間見たような気がした。
「新・人間革命」第19巻の”虹の舞”の章に戻ります。沖縄県婦人部長の上間球子の想いが紹介されている。
彼女は「蒼蠅驥尾に附して万里を渡り碧蘿松頭に懸りて千尋を延ぶ」との御聖訓をかみしめていた。上間の胸には、伸一の沖縄訪問の一コマ一コマが次々に浮かんだ。(中略)
さらに、64年(s39年)12月の訪問では、「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど悲惨なものはない」で始まる、小説「人間革命」の筆を起こされた。それは、平和の先駆をめざす私たちの、最高の誇りとなった… (中略)
僻地の沖縄だからこそ山本伸一の戦いがあり、真剣な戦いがあった。そして「目標あるところには、希望の光があった。」
その目標は自ら作った。
病苦や経済苦などの様々な悩みを抱えながらも、あたかも波乗りを楽しむかのように悠々と乗り越えていことができる。
信心の本当の功徳とは、この「境涯革命」「人間革命」である
さらに「利己」から「利他」への歴史が繰り広げられた。
『微笑は大なる勢力なり、春の嵐の如し、心の堅氷を解くの力あり』(内村鑑三全集14岩波書店)
石垣島から宮古島への移動でも、山原祭り終了後にも虹が出た。
和やかに 天に虹舞い 友も舞う
”虹の舞”の冒頭の書き出し、前略とした書き出しの詩に戻ろう。
人間……
なんと尊きものよ!
なんと強きものよ!
なんと美しきものよ!
「新・人間革命」に出てくる沖縄に、陽光を感じる。悲惨や労苦を乗り越えた人々でなければわからないものがある。