介護体験記の先に生死観をみる

モリパパ・ブログ「老年に至る。」でも紹介した、ノンフィクション作家、松浦晋也の「介護生活敗戦記」(日経ビジネスDigitalに2017年3月9日から掲載)というブログが、単行本になりました。

このブログ、ずいぶん反響を呼んだのですね。愛読者ながら驚きました。

10月2,3日に『俺に似たひと』の平川克美さんに聞くという投稿で、平川氏(文筆家・実業家)との対談が掲載されました。

この対談の中で、興味引くフレーズがあったので、箇条書きにしてみました。

  • 介護をして一人前なんだ。
  • 明日何が起こるか、全然分からない。
  • 下の世話をしていない介護は介護じゃない。
  • ゴールが病気の快癒じゃない、ゴールは死。
  • やり切るしかない。
  • 介護を任されるリスク。
  • 介護を家庭に押し込めるべきではない。
  • 死は、法律になじまない問題。
  • 死を考えるから、生きることを考える。

特に「死を考えるから、生きることを考える」につては、対談でこのように言っています。

松浦:最悪、高齢者層が社会的圧力を逃れるために死を望む、みたいな形になっちゃう可能性すらあるわけで。

平川:生活保護の問題と一緒ですよね。あいつらに金を掛けているのは、医療費のムダだと。本人たちも「迷惑を掛けるから死なせてくれ」みたいになっちゃう。

松浦:でも、それは結局、社会的な同調圧力でしかない。

平川:大変に難しくて深い問題ですね。

介護は、自身の死を身近な問題として考えさせる。
詰まるところは「自分自身の死とどう向き合うか」になってきますか。

平川:それをずっと僕は考えていたんだけど、でも、人間というのは、生まれたときにもう死が約束されているわけですよ。言ってみれば、死ぬ寸前までは生きている側なんですよ。
だから、死を考えると言うことは、裏返すと、どれだけ自分が「生きている」という実感の中でやれるか、じゃないか。

さっき(前編参照)「介護した人はおそらく同じ認識を得る」と言ったけれど、それは、死というものをものすごく身近に考えることじゃないですか。

松浦:そうですね。死を考えるから、生きることを考える。
生きている間に「生きているぞ」と感じることをやりたい、と考えますね。

平川:僕はこの4年間でがんを3回宣告されて2回手術したわけですけど、自分の人生というか、自分の老後――もう確実に30年後はこの世にいないわけですので――20年後はどうか分からないけれど、今生きているのは「残された時間」だ、という考え方になりましたね。その残された時間をどう有効に使おうかと。

松浦:そこまではいきませんでしたけれども、「残された時間は有限である」という意識は介護の経験を通じて、たたき込まれましたね。でも、やっぱり甘いんでしょうね。残された時間は有限だと思って、最初に思ったのは「俺はあと何年バイクに乗れるだろうか」とかで、自分の欲望の充足にいっちゃった。

介護に就いて、生死の問題に辿り着きながら、「バイクに何年乗れるかな?」といった「落ち」で終っています。

人生は体験しないと解らないことだらけです。病気も貧乏も体験しないと解らない。介護も体験しないと解らない。
他人の体験ではなく、自身の体験でないと解らない。そういった意味で「死」に直面する体験を、介護の場で学ぶことは多いでしょう。

御書に「さればまず臨終の事を習うて後に他事を習うべし」(妙法尼御前御返事 P1404)とあります。先ずは、もっとも大切な生死観、即ち臨終のことを習ってからとあります。
「生・死」に関することは宗教の役割でしょう。自身の人生は、落語の「落ち」のようなもので済ませられませんからね。

あゝ生涯信ずるものを持っていること自体、実に幸せなことだ。