大正デモクラシーは政党政治の時代でした。その時代を画期した満州事変[1931(s.6)9.18]を紐解いてみたいと思います。なぜか
そこに戦争の時代への緒があるかも知れないからです。
伊藤博文は憲法草案を練ったとき政党政治を夢描いたのですが、68才の時に暗殺されてしまいました。
政党政治を実現し平民宰相として大正デモクラシーをなした原敬も65才の時、東京駅で暗殺されました。
続いて政党政治を最も推し進めた浜口雄幸も同じ東京駅で遭難し道半ばにして 62才でこの世を去ってしまいました。
民主主義の開拓者は、この日本でも壮絶な人生を辿っています。
政党政治を代表する原啓と浜口雄幸は、衆議院に議席を持つ内閣総理大臣で、それまでは、この二人だけだったのです。
さて原敬に続く、浜口の時代[1929(s.4)年7.2~1931(s.6)年4.14]を、振り返って見ないと、満州事変を起こした軍部の暗躍を読み解けません。
原敬は、組閣[1918(T.7)9.29]で、ほとんどのポストを政友会で固めたのですが、陸相と海相だけは、従来のまま旧藩閥の人事で、手を付けませんでした。軍部という非常に厄介な組織の人事に手を付けられなかったのです。これが将来、軍部の暗躍を許すこととなった一因かも知れません。
原敬が暗殺[1921(T.10)11.4]された、同じ年に
ドイツ南部の保養地バーデンバーデンで、永田鉄山、岡村寧次、小幡敏四郎ら三人の武官が密会しています。
いずれも陸軍士官学校(陸士)16期生で、後に永田は軍事課長、岡村は補任課長、小幡は作戦課長となる少壮の陸士であります。
三人は欧州を視察し、第一次世界大戦の惨禍を、自分の目で見ています。そこで見た近代戦争は、日露戦争のようなものとは全く違い、国家総力戦であり持久戦となることを学び取っています。
彼等はその後、国内で会合を持つようになり16期の他に、15期、17期の陸士を加え、20名程度が参加した二葉会を作ります。
更に、二葉会にならって石原莞爾をはじめとする木曜会18名が組織され、二葉会と木曜会が合流して「一夕会」が1929(s.4)年5月に誕生します。(参考:満州事変と一夕会 年表)
満州事変が起きる前の1931(s.6)年9月までに、一夕会のメンバーが、陸軍中央、関東軍の幕僚の主要なポストに就いています。
満州事変は、政党内閣(浜口)と軍部(一夕会)の暗躍と激突でありました。詳しくは「満州事変と政党政治」を読んで頂くとにして
著者;川田稔は、浜口の平和主義を次のように評価しています。以下これを引用・紹介しておきたいと思います。
近年の研究で政党政治の体制はかなり強固なもので、内外関係をふくめ相当な安定性を持っていたことが、明らかにされてきている。(p.99)
浜口は外交政策として、ロンドン海軍軍縮会議の参加、中国関税自主権の承認など対米英協調と中国内政不干渉を中心とする国際的な平和協調路線を推し進めていた。(p.100)
原は国際連盟を、次期大戦を防止するため「世界の平和を強制する」国際機関として生み出されたものと認識しており、組閣後まもなくロンドン海軍軍縮会議への参加を決定した。
浜口は、ロンドン会議を、陸海空それぞれの軍備縮小をめざした、国際連盟の軍備縮小会議準備委員会の課題を引き継いだものと位置づけていた。(p.106)
1928年[s.3]に締結された不戦条約は「戦争を絶対に否認したるもの」であり、この条約に違反するものは、「世界を敵とする」ことになる。その場合、世界の各国は「侵略せられたる国」を援助するであろうし、条約違反国の行動を傍観することはないであろう。(p.108)
田中政友会内閣時の1928(s.3)年に調印したパリ不戦条約が、浜口内閣時に発効した。そのことについて浜口は、「世界平和のため人類幸福の上に慶賀に堪えざるところである。願わくば現調印国はもとより参加列国はその本領にしたがい、その目的たる国家政策遂行の手段としての戦争放棄を永遠に遵守して世界平和の実を挙げんことを余は衷心より希望するものである」との談話を発表している。なお、田中内閣による条約締結当時、条文中の「人民の名に於て」の文言が問題にされたことがよく知られているが、その時も条約内容そのものについては「満腔の賛意を表する」とするのが浜口ら民政党の姿勢であった。(p.110)
原から浜口へと政党政治が引き継がれ、それは、浜口が平和主義を希求した内閣でありました。
また、対中政策に関しては、中国の関税自主権、治外法権撤廃を支持しており、内政干渉はせず、中国の自主を尊重しています。
浜口が凶弾に倒れた後は、次の若槻内閣にこの対中国政策が引き継がれていきます。