この記事は3年以上前に投稿された古いものです。
藻谷とNHK広島取材班の造語、里山資本主義ですが、“資本主義の終焉と歴史の危機”と通ずるところがあります。
まずは、この本を原文そのままに、つまみ食いでご紹介します。
- 「ちゃんとした経済」に入れてはいけないと思ってきた。または、思い込まされたきた。それに異を唱えようというのが「里山資本主義」という「サブシステム」
- (岡山県)真庭市には、なんとバイオマス専門の部署、その名も「バイオマス政策課」があり…
- 「エコストーブを作ったくらいで原発が止まるの?」という言い方をする人がいます。…かつての僕なら「できる」といっていたかもしれませんが、このごろは「できません」と答えるように…
- 里山資本主義は近代化に取り残された過疎地だけの専売特許ではない。人口1,000万に満たない小国ながら一人あたりGDPで日本を上回るオーストリアでは、国を挙げた木質バイオマスエネルギー活用が進みつつある
- 大量生産・大量消費型の技術ではなく、一足先に、身近な資源を活かす技術を極めつつあるオーストリア…
- 森林を管理する人々が存在する。「森林官」や「森林マイスター」というかっこいい肩書
- 第一に、なにより林業従事者の作業環境が安全になった。林業に従事する者はみんな教育を受けることが義務付けられた
- 各国の国債すらターゲットにし始めたマネーのモンスターたち。彼らは市場の変動が激しければ激しいほど、そこに価値を見出し、買いたたき、売り浴びせ、短期の利益を求め続ける。
- 21世紀。ある程度の経済成長を果たし、物が溢れる豊かな時代になって、私たちはふと気づいた。全国どこへ行っても同じような表情になってしまった日本の町を見て、違和感を覚え始めたのである。
- 「里山資本主義」とは、お金の循環が全てを決するという前提で構築された「マネー資本主義」の経済システムの横に、こっそりと、お金に依存しないシステムを再構築しておこうという考え方だ。
- しかしそれは、「簿外資産の活用による金銭換算できない活動が、目に見えないところで盛んになって、お金に換算できない幸せを増やす。ついでにお金で回る経済システム全体の安定性も見えないところで高まっている」と言う話にほかならない。
- 見かけ上経済活動は小さくなる。でも、実は豊かになっている。里山資本主義の極意だ。さらに、手に入る「豊かさ」は金銭的なことだけではない。「楽しさ」や「誇り」といった「副産物」が次々「収穫」されていく。
- マネー資本主義自壊のリスクに対処できるバックアップシステムが存在しないところからくる。複雑化しきったマネー資本主義のシステムが機能停止した時に、どうしていいか分からにというところから不安は来ているのだ。
- 実際問題、里山で暮らす高齢者の日々は、穏やかな充足に満ちている。遠い都会で生まれているあれこれの策動や対立や空騒ぎには嫌なものを感じつつも、毎日上り来る陽の光の恵と、四季折々に訪れる花鳥風月の美しさと、ゆっくり土から育つ実りに支えられて、地味だが不安の少ない日々を送っている。
- 里山主義こそ、日本を100%確実に襲う、いやもう既に何十年もかけて進行している問題(少子化)、場合によってはほとんど日本社会の息の根を止めかねない本当の危機に対する、最大で最後の対抗手段になるかもしれないのである。
- 人間の価値は誰かに「あなたはかけがいのない人だ」と言ってもらえるかどうかで決まる。人との絆を回復することで、そして自分を活かしてくれる自然の恵みとの繋がりを回復することで、「自分は自分でいいんだ、かけがいのない自分なんだ」ということを実感できる。
マネー資本主義とは競争原理です。価格で,納期で,品質で,サービスで勝ち抜かなければ、それは倒産する会社となり、崩れていく社会となることを意味します。
そして絶えず拡大につぐ拡大を余儀なくされる資本主義に翻弄されていく訳です。
慾と道ずれのマネー資本主義から脱却するには、正解はひとつではないように思えます。里山資本主義はそのひとつの選択肢かも知れません。
オーストリアの木質バイオマスの取り組みが紹介されています。これは富士通総研の梶山恵司氏が指摘したところでもあります。更に、日本も50年前の植林の成果によって、日本の森林資源が保育から利用の段階になっているそうで、ここは経済的な着眼点になるわけです。
また、定年を機に「のがれの町」で田舎暮らしを始めようとする人にとっては、里山資本主義万歳!ですね。
でも一方で、都会暮らしから田舎暮らしに移ったものの、田舎の文化にも馴染めず、結果として田舎からも逃げ出し、細々と都会暮らしを続けていかざるを得ないような人も現実には多いと聞きます。いずれにせよ…
里山資本主義は大人のファンタジーです。