古い本ですが 「ワインの世界史」と「文化史のなかのドイツワイン」を参考にしました。 著者の古賀氏は農大の農芸化学の卒業で、モリパパが親近感を感じた理由です。更に、古賀守は戦前9年間(1936~1945年)ドイツに留学していた時、ナチスからユダヤ人を匿った人道主義者でもありました。これもまたモリパパが気にいってる訳であります。
この著者は「Der Wein:Geschchite und Geschchiten über Jahrtausende Bilder und Dokumente」 (訳「ワイン:数千の画像と文書による歴史と物語」)を参考にして書いたといってますので、 モリパパに至っては、原著を参考にして書いた本を、また参考にして書いたことになります。
古典ワインまで
ワインが人間と交際し始めたのは、チグリス・ユーフラテスのメソポタミア(両河文明)の一角です。
シュメール人によって造られた痕跡があるそうです。麹(コウジ)作りが要らないワインは、 酒の先駆者となりました。
“文明は文字より酒”だと思ってるモリパパにとって、ワインという酒もクサビ文字より先に生まれたのじゃないかと思っています。人類が生まれた時、酒も生まれたんです。
その後、エジプト、イスラエル、シリア、バビロン、アッシリア、ヒッタイト、ヘブライなど、 オリエント一帯にワインの香りを届け古典ワインが生まれました。 ワインの歴史は6,000年に溯ります。
ギリシャのディオニューソスとローマのバッカスは、元々は同じ神だそうです。
ギリシャにはディオニューソス信仰というのがあって、山中深夜の秘儀でワインで酔い痴れて、乱交乱淫の半狂乱の祭典があったそうです。 余りにひどいので、その後秩序ある祭典として規制がかかり民族的行事となったと伝えられています。
ギリシャでは、既にワインのためにブドウが栽培され、搾什器もでき、 どぶろく状態から透明で美しいワインになり、 より多くの民衆へ普及していたそうです。 殆どの場合、ワインは水割りで飲まれ、必ず右回りで、杯を回し飲みしていたそうです。 AC1500~1600年頃のことだそうです。
新ワインの時代へ
ローマでは、エトルリア(今のトスカーナ地方の都市国家)に既にワインが入っていて、ここを勢力下に置いてからワインが普及していったそうです。「ギリシャのように何の躊躇もなく、これを受け入れて楽しんだ」わけではなく、「ローマ人は疑心暗鬼の目で受け止め、イタリア本土を蚕食し、覇権をにぎるまでワインを手にしてこなかった」と伝えられてます。ローマのワインは、アンフォーラ amphora (20~30L)に入れ、石膏や粘土などで密閉されます。
その取っ手や首にエチケット(étiquette)紙片がぶらさげられて、品種、搾汁年度が記入されたそうです。さらに搾汁も、自然汁と搾汁とを区別して醸造されていたそうです。
ローマでは大体80種くらいの銘柄のワインが販売されていたそうで、2/3が国内産、あとはギリシャ(キオス島、レスボス島、キプロス島)やシシリー、フランスなどからの輸入ワインだったそうです。
銘柄もSabiner(エトルリア産), Falerner(ファレルノ産),Massicus, Cäkuber, Setiner, Formianer, Puciner, Tarentiner, Vaticanerなど史上に残る銘柄があったそうです。
もうギリシャのように水割りしたり、蜂蜜を入れたりせず、ローマ人はこれを生地のまま飲むようになりました。
陶器かグラスの高坏が使われていたというのですから、ローマ時代に現在のワインの飲み方の原型が出来上がっていたようです。
歴史上初めてのワイン年と記録されている大ワイン年(Vintage)はAC121年だそうです。(近代のVintage 1811年に匹敵する)このワインはDC30~40年になっても非常においしく飲まれたと記録されています。何と150年後になっても飲めたVintage Wineだったそうです。
AC70~60年の頃、まさにローマ全盛時代、パックス・ロマーナ(Pax Romana)を謳歌していた頃、 沈没船マドラグ・ド・ジアン号の船内から7千~8千個のAmphoraが発見されています。そのうちいくつかはコルク栓がはめられ、モルタルで密封されていたそうです。製造者の刻印まであったそうで、 高級ワインが既に出回っていたようですネ。
ローマ帝国が拡大するに併せて、ワインのブドウ畑も拡がっていきます。ところがローマでワインが売れるので、各地の植民地でワインつくりのブームが起きて、ローマになだれ込んできます。
ローマ経済は破綻寸前になり、皇帝ドミチアヌス(DC81~96年)はワイン造り制限令(DC91年)を出し、植民地のブドウ山を破壊。ワインは下火になってしまいます。
しかし、150年後「ワイン皇帝」プロブス
によって、ワインのブドウ畑が再開発され、フランスに、ドイツにもブドウ畑が拡大していきました。
ローマの皇帝コンスタンチヌス(DC305~306年)が キリスト教に改宗するまでローマではキリスト教は迫害の歴史でしたが、 キリスト教の聖体拝領の儀式にワインが用いられてきたため、教会や修道院はブドウ畑を拓きワイン造りを継承していました。 これが後のカール大帝の時代にワイン文化を押し進めた隠れた存在になったのであります。
ゲルマン民族大移動(DC375年)からカール大帝が出現(DC768年)するまでの400年間は、 まさに暗黒の中世という長い無気力な時代を迎えます。ワインにとっても特筆すべきものが何もありません。
青色地域が、カール即位時[DC742年]のフランク王国
ワイン文化のルネッサンスは、フランク王位を継いだカール大帝(DC742~814年)によって開花します。
カール大帝はローマ教皇と教会の権威をうまく利用しながら、王権と教権の融合を謀ったもので、この大帝の時代にブドウ畑拡大とワインの品質改良が一気に進むことになりました。カール大帝のワインへの情熱は、ワイン改善のため布令を出すほど熱心だったそうです。現在、白ワイン産地の心臓部となっているリューデスハイムのブドウ畑開拓に目を付けたのはカール大帝だったとされています。
現在のイタリア、ドイツ、フランスのワインの基礎は、このカール大帝の頃にできたと言って過言でないでしょう。
カール大帝にワイン普及栄誉賞を送らせて頂きます(モリパパの独言)
いよいよ、現代ワイン
これからのワイン史は短かく簡単にしておきます。だって現代ワインは別にウンチクを書くつもりですから。ただ、ここ1945年以降(終戦後)の半世紀は急速に変化・成熟したワインの時代を迎えるのです。
私たちはその真っ只中にいるのです。
では、また後ほど~。
雑談
ドイツのビール好きが、実はワイン好きだったということを知ってますか? 16世紀初頭には、ドイツのブドウ畑は30万haにおよび「RheinlandはWeinland」だったんです。そして庶民の酒となったワインですが、飲むのも半端じゃなくて、年間一人当たりの消費量が140L(年間ワイン195本/人になります)に及んだというのですから、ビールを超えた消費量だったわけです。
このころ昼間っからワインを飲むのは当たり前で、会議の席上にワインが出なかったら、誰も会議に来なかったというから、面白いですね。
ワインの形式
ワインは形式があります。ボルドーにはボルドーの形、ブルゴーニュにはブルゴーニュの形があり、これは頑固に守られています。フランスにはワイン法というのがあって、この法律で決められてるそうです。(ワイン法;1935年制定、A.O.C.(原産地統制名称法),ぶどうの種類,醸造法,原産地を規定)
「でもいつ頃から、今のボトルになったの?」
ガラスが高価で、食卓の装飾品でしかなかった時代には、当然ボトルはなかったんです。1723年、ボルドーに大規模なガラス工場ができてからだそうです。
第二次世界大戦以降、大きな戦争は無くなり、文化・芸術が社会的な地位を得ると同時に、 ワインもここ数十年で、急速に発展してきました。
ブドウの種類も、栽培地、醸造法も、そして何よりも革命的な流通によって、今のワイン文化ができています。
ワインは古くて歴史ある飲み物ですが、実は今のワインを語るとき パックス・ロマーナの時代とは比較にならないほど複雑で、グローバルになっているんです。
・・・と言うことで、ワインの歴史を卒業しましょう。