老人の関寛斎を訪ねて陸別へ行ってきた。関寛斎については何度かこのブログで紹介したが、改めて簡単に紹介しておきます。

まだ、蘭語のフェレヘイド(自由)の意味を理解できなかったころの時代だった。
幕末から明治の大変革期を生き抜いた一人の医師がいた。関寛斎その人である。
佐倉順天堂で佐藤泰然に師事し、長崎の医学伝習所のポンペの下で西洋医学を学んだ。科学的な医学を修め、人道的な医療を志した。
戊辰戦争では、官軍の病院長として敵味方を問わず治療に当たった。そして山梨の病院長を1年務めたのち、徳島で一町医者となり開業した。貧しい人々には無償診療をおこない庶民に敬愛され、慕われた。

こんな自由な生き方をした人は、当時ほかに居なかったであろう。
ところが72才にして北海道開拓を決断し、40年近く住んだ徳島から一家を引き連れて、札幌、石狩樽川農場、更に斗満原野へ向った。
74才のとき妻あいを札幌で亡くし、災害に牛馬をほとんど失い、斗満原野に再起するハメに陥ったこともあった。苦労が絶えない斗満の開拓だった。そして入植10年目、82才のとき服毒自殺して亡くなってしまった。
関寛斎(白里) 晩年の詩
- <壮年者に示す>
口に言い文にもかけど行いの
足らざる人の行く末を見よ
八十二才老白里- <農業>
白金や黄金の宝積むよりも
耕す人のこころ貴き
八十二才老白里- <感ずるまゝ>
憂き事のなほ来たりませ露の身の
志たたり落ちて消えうせるまで
八十三才老白里- <我家>
遠く見て雲か山かと思いしに
帰ればおのが住居なりけり
八十二才老白里- <創業>
九とせを過ぎにし初め人問わば
夢と答えん一家の月
八十二才老白里- <祈りにふれて>
幾度か破れ破れて斗満原
身は空蝉に心成仏
八十二才老白里- <死後希望>
我が身おば焼くな埋むなそのまゝに
斗満の原の草木肥せよ
八十三才老白里- <辞世>
諸ともに契りし事も半にて
斗満の里に消ゆるこの身は
八十三才老白里
陸別の関寛斎資料館の方に、なぜ服毒自殺したのか尋ねてみた。
一説には息子又一と意見の相違などが原因。そのほか世情が自分の考えと大きく変わってしまい失望したとのこと。
いずれにせよ本当の理由は分からないということです。
それでは、ミステリーと言うことにした。
自殺は絶望である。それも人生最期に絶望するのは不幸である。
この一点だけが関寛斎「九仞の功を一簣に虧く」ことになった。
…されど自殺はいかん。敬愛する哲人が自殺について述べている。「この肉体というものは、法の器ともうしまして、仏からの借り物になっております。勝手に壊してはならない」と力説してます。


司馬遼太郎の石碑の奥に関寛斎の像がある司馬遼太郎は、この寛斎の生き方に強い関心を持って描いている。「胡蝶の夢」「街道をゆく15 北海道の諸道」などに詳しい。
司馬遼太郎も陸別を訪問されていたようだ。
私事ながら、自分も73才で身内も頼る者もいない北海道に一人転居したので、この老人の関寛斎に関心があったし愛着を感じていた。
もちろん時代も違うし、寛斎ほど立派な業績もない。動機も違う。
「さぁ北海道の新生活を楽しみにと期待を抱いて北海道生活を始めた程度のこと」であった。
一寸気楽な気持ちで陸別を訪問し半分物見遊山だったたせいでしょうか? 陸別に泊まった夜は、北海道では珍しく激しい豪雨に見舞われ、深夜に閃光と雷鳴に何度も起こされてしまった。
翌朝、何とか晴れ間が出たが、豪雨災害で根室本線は一部不通となり、代行バスで5時間遅れで疲れきってやっと帰宅しました。