大正デモクラシーから戦争への道

1922年(T.11)ワシントン会議で中国の領土保全と門戸開放を定めた、九ヵ国条約(米英蘭仏伊白葡中日)が締結されました。
これまで列強諸国が、先を争って植民地化や勢力圏の拡大を図ったが、それが否定され始めました。
少なくとも、中国に限っては条約の形で禁止し戦争違法化の方向性を模索し始めた時代だったのです。
これを象徴するのが九ヵ国条約で、この基本的な考えに基づいてワシントン海軍軍縮条約、パリ不戦条約ロンドン海軍軍縮条約へと繋がっていったのです。

浜口雄幸の平和協調、対中政策の外交路線も、九ヵ国条約の基本的考え方を汲み取ったものです。日露戦争以降の国際的な変化や、国際連盟の姿勢をよく理解していたと思われます。

当時、対中政策については、四っあったようです。だがその後、中国の国民政府による全土統一を容認する平和協調か? 陸軍中堅幕僚層が企図した満蒙領有支配か?に二分されたとみてよいでしょう。

指導者が名誉や地位にこだわっているようでは、その政治は信頼に足りません。一身の成敗を度外視し身体を張るといった、命がけの指導者だったかどうか、そこを歴史は問うものです。
原敬はらたかし浜口雄幸はまぐちおさちも命がけでした。残念なことに政党政治を代表した二人は、ともに暗殺の悲劇に見舞われたのです。誠に、残念な歴史です。

もう少し政党政治が続いてればと思っても歴史は変わりません。大正デモクラシー(政党政治)を継いだ、昭和初期の浜口内閣の強引な平和協調路線は、浜口首相の暗殺により頓挫します。

補足になりますが、戦前の”大日本帝国憲法”では、天皇より下問を受ける形で、元老の奏薦にもとづいて、首班を決定するのが慣習となっていました。当時の元老は井上馨、山県有朋、松方正義、西園寺公望などでした。
殆どの場合、元老は貴族院議員から首班指名をしました。例えば田中義一、若槻禮次郎、犬養毅、加藤高明など貴族院議員でした。こうした中で、普通選挙で衆院議員から出た首相は、原敬(政友会)と浜口雄幸(民政党)の二人だけだったのです。この二人以外に衆院議員で首相となった者は、戦前だれもいなかったのです。

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