大正デモクラシーから戦争への道

世にかねの力ほど恐ろしいものはない。政治にかねは付きものです。
特に昭和初期の政治とかねの問題は、待合まちあい政治と言われるほど、政治の裏でカネが動いた時代でした。

1928年(S.3)、魚河岸から築地移転に伴う、板舟権補償を巡って魚河岸関係者(理事)と東京市議らとの汚職事件が発覚。その後、京成電鉄の乗り入れに関する東京市会の汚職事件へ発展します。
相次ぐ市議の逮捕に対して内務省は、東京市会の解散を命令するほどでした。

こうした時代、1934年(S.9)帝人事件が起きましたす。斎藤実内閣の総辞職の原因となった事件ですが、起訴された全員が無罪となった不可解な疑獄事件です。

第一次世界大戦後の好景気に乗って拡大した鈴木商店は事業拡張のため、台湾銀行(台銀)から3億5千万円の借入れ、担保として傘下の帝人株22万5千株を差し入れます。
ところが、S.2年の恐慌で鈴木商店は破綻し、台銀もその煽りを受けて苦境に立ちます。財界救済のため政府は、日銀から台銀へ融資を決定します。
台銀は、S.8に帝人の増資、増配、上場によって株が騰貴し、その後、買付団に10万株を売却するができます。「この取引に不純なものあり」ということで検察の捜査が入ったのです。

起訴されたのは、台銀元頭取、帝人役員、大蔵省元大臣他、貴族院議員など錚々そうそうたるメンバー16名というもので、256回の裁判が開廷され、足かけ3年を要した裁判となりました。

新聞ジャーナリストは当初、16名全員に懲役求刑されるものと報道し「何か割り切れない」疑獄事件として喧伝し、財界・官界要人を激しく攻撃します。「掘り下げるほどにモヤモヤが出てくる帝人事件」と政財界と官界に亘る大事件として報道しました。

しかし、最終的に全員無罪の判決が言い渡され結審となります。新聞ジャーナリストは、無罪となるとてのひらを返したように、検察を「司法ファッショ」と糾弾していきます。
自ら同調した検察を糾弾し、斉藤内閣を総辞職に追い込んだにもかかわらず無関心を装い、損害に対して補償せず、無頓着のままやり過ごし、反省の弁も全くなくうそぶいてしまいます。これぞジャーナリズムです。

なぜ戦争を阻止できなかったのか?当時の新聞がどうして戦争協力の走ってしまったのか?
それは新聞自体が、生き延びるために保身の新聞ジャーナリズムだったからです。

軍部を抑えきれなかった政府、その政府を支援した財界。しかし、最も罪が大きのは新聞ジャーナリズムではなかろうか?

前坂俊之は、水野 広徳ひろのりの小説『此一線』の冒頭部分「兵は凶器なり、天道これにくむも、むを得ずして之を用うるは是れ天道なり」とある一節を「書名」にして、戦争と新聞の戦前史を綴っています。

日露戦争の頃から、日本が戦果を挙げるたびに提灯行列でお祝いすることが、熱狂的なポピュリズムへと変貌する下地を作ったのかも知れません。

最初のポピュリズムは、1905年(M.38)の日比谷焼き討ち事件だそうですが、

新聞は政党攻撃を始め、田中義一内閣の攻撃では天皇周辺・貴族院による倒閣を促すこととなりました。

5・15事件では、陸海軍とともに世論を煽動する役割を担いました。帝人事件では無罪の人々を攻撃し、内閣さえ倒しました。

無責任なジャーナリズムが、熱狂するポピュリズムを更に煽り、軍部の一部少壮将校たちによって企図された戦争の扉を、易々と開いてしまいました。

もし賢明なジャーナリストがいたら、戦争の扉に鍵をかけることも出来たはずです。
スクープを手柄に、大衆を煽るだけ煽って、自らの責任に無関心を決め込むジャーナリズムは、100年前の大正時代から今も変わらぬ姿です。

(完)

 

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