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ウトナイ湖

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7月8日、初めてのウトナイ湖はあいにくの雨でした。景色さえかすんでいました。

ウトナイ湖は、1991年(H3年)に国内4番目としてラムサール条約に登録されました。また1981年(S56年)に日本野鳥の会サンクチュアリーとしてネイチャーセンターも設置されています。

道の駅ウトナイ湖には展望台まで設置されています。

だれでも身近に感じるウトナイ湖とBird Watcherにはバードサンクチュアリーがあって楽しませてくれます。

雨模様の湖面をみていたら、何か動くものがいます。シカでした。

500haにも及ぶウトナイ湖は大自然の中にあります。さすが北海道です。

BirdWatchingと思い近くの林内の小径を行くと小鳥が騒がしい。アオジかと思ったのですが、カシラダカのように短い冠羽があります。シマアオジの小径と書いてあったので?でも違うね。

北海道を意味する「シマ」が付く鳥がいます。そのうちシマエナガを見てみたい。北海道の野鳥は勉強しがいがありそうです。

ウトナイ湖にもう一回行こうと頼み込んで、旅行の最終日 7月13日に連れて行ってもらいました。

雨ではなかったが、この日は上手く鳥の写真が撮れませんでした。

自然は気ままですし、どんな鳥に遭えるか分かりません。それがBirdWatchingの面白さなのかもしれません。旅行でなく、住んでいないとできないことです。

恵庭から札幌まで北へ25Kmほど、南のウトナイ湖までも25Kmほどです。車で行くに程よい距離にあります。

札幌のPMF(Pacific Music Festival)やコンサートにも行ける距離でありながら、自然の真っ只中のウトナイ湖にも行ける距離、こんな贅沢が何処にあるでしょうか。

 

久蔵とクラーク邂逅の地、島松駅逓

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北海道旅行で初めて島松駅逓しままつえきていを訪れて一つ驚きがありました。中山久蔵とクラークは、明治10年(1877)ここで直接対面していたのです。私の不勉強かもしれませんが、驚きの発見でした。

中山 久藏

中山久蔵という名は知ってました。北海道の魅力は開拓史 お米とワインの稿で、北海道のお米の開拓史として中山久蔵に触れたことがあったからです。
現在、米生産量で北海道は日本一となり食味でも「ゆめぴりか」がブランドになりました。昔の「やっかいどう米」は今は昔の話です。

島松駅逓
左が中山久蔵の碑、右がクラーク博士

久蔵が初めて赤毛種を生産したのは島松駅逓の脇にある50坪ほどの小さな田んぼからでした。
島松駅逓で別れを告げたクラーク博士の碑とともに並んで、久蔵の碑が建てられています。

羊ケ丘クラーク
羊ケ丘クラーク博士立像の先に札幌ドームが見える

羊ケ丘のクラークの銅像は観光で知らない人はいませんが、中山久蔵を知らない人は多いようです。

”寒冷地では稲作は無理”と言ったクラークと”稲づくりの久蔵”として知られる者同士が邂逅したのが島松駅逓です。クラーク50才、久蔵49才この二人同じ年代の人でした。そして島松駅逓で仕組まずしてめぐり逢ったのです。

北海道に残る最古の建物、島松駅逓

札幌から一つ目の駅逓となる島松は、島松川を挟んで北が北広島市、南が恵庭市の境界にあります。

屯田兵には稲作禁制が布かれた頃、この禁制に挑んだ人が久蔵で、北海道に米作事業を成しました。

北大の権威クラーク博士は二十数名の見送りを受けるなか、島松駅逓守えきてい もり久蔵はひそかに見守るようにその光景をうかがったようです。

William Smith Clark

1年契約で来日したクラークの札幌滞在は僅か8ヶ月でしかなかった。

早春4月、この島松で別れに当たってクラーク博士が残した言葉が、今も語り継がれて、北海道のレガシーlegacyになっています。 「青年よ大志を懐け」

“Boys, be ambitious like this old man”
“ Boys, be ambitious in Christ (God) ”諸説ありますが、
“ Boys, be ambitious for what a man ought to be. Gentlemen, good-bye. ” というのが一番穿うがっています。
即ち「人間として役に立つ仕事をするために、人間というものは野心的であらねばならぬ」です。(知的野蛮人のすすめ 岡野加穂留著 P6)

 

レスパイト旅行 恵庭の花さんぽ

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レスパイトrespiteとは一時中断とか一時休息といった意味で、介護する者の一時休息のためにレスパイト入院が考え出されました。

オフクロの理解を得て、レスパイト入院している間に、再び北海道は恵庭へ旅行しました。いまも北海道へ移住を楽しみにしていて、今回は恵庭に6連泊のショートステイでした。

7月上旬、東京は梅雨の蒸し暑い季節なのですが、冷涼な北海道は花の季節です。今回の旅行中は雨天が多く抜けるような青い空を見ることはありませんでしたが、それでも路傍や花壇に一斉に咲く花々は、色鮮やかな高山植物のようでした。

再び来て「ここ恵庭は米国中西部のような所」だと印象を持ちました。
現在、恵庭に住んでいる友人SKさんは、以前米国インジアナ州の田舎町に数年暮してたことがあります。その彼が「ここ恵庭はインジアナとそっくりだ。電柱が無ければね…」と言うのですから間違いないでしょう。
アメリカの血筋を引く北海道どころか、気候も米国中西部に似て、ここは米国だといってもいい程です。蒸し暑い東京からみればまるでリゾート地です。

高原の朝、鳥のさえずり、色鮮やかな花壇、風にそよぐ白樺、広く真っ直ぐな道路、ゆったりした住宅地、どれをとってもここ北海道恵庭はリゾート地です。

希望する所へ車を走らせてくれたSKさんに今回大変お世話なりました。SKさんと同じ職場だったのは数えれば35年前のこと、これまで年賀状だけで細々と続いた旧友です。旧友の有り難さが身に沁みます。

またKMさんにも2日にわたって車を走らせて頂きお世話になりました。ホームページ制作で始まったKMさんのお付き合いは2019年7月からで、たった2年のお付き合いです。実は、今回の旅で初めてお会いした新しい友人です。

旧友と新友にお世話になって、充実したレスパイト旅行でした。旧友と新友のご親切に心から感謝して、この稿を閉じます。ありがとうございました。

 

森脇屋徳助の末裔なり

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モリパパ(森家)家系物語ヒストリエなど語るほどのものではありませんが、今となっては自分以外に語り継げる者はいなくなったので、正確な真偽を差し置いて、想像を巡らせながら書いてみることにしました。
少なくとも、江戸期に創作された「源平藤橘げんぺいとうきつ」をみなもととするような武家の家系図よりマシだと思っております。

ルーツをさかのぼれるものは戸籍と墓石です。戸籍は150年保管されるとのことですが、本籍を転々とする間にさかのぼれなくなってしまいました。また既に「墓じまい」してしまったので、過去帳はおろか先祖代々の墓も残っていません。たまたま墓じまいするとき父が墓碑を写したメモがありました。これを拠り所にしました。

父の出身地は鳥取県米子です。万福寺に森家の墓があったそうでその墓石の最初に刻まれていたのが、森脇屋徳助もりわきや とくすけです。天保8年(1837年)4月15日没とあります。

 

森脇屋は屋号で苗字(姓)ではありません。商売をやっていたのでしょう。場所は鳥取藩 境港さかいみなとでした。
江戸後期から明治にかけて最盛期を迎えにぎわったようです。既に徳助のころ、寛政年間(1789~1800)には北前船の寄港によって、境港は潤っていました。

徳助の出生出自は分かりません。天保8年(1837年)に没したので江戸時代後期、文化文政(1804~1830年)のころの人でしょう。
余談ながら、伊能忠敬(1745~1818年)、高田屋嘉兵衛(1769~1827年)、葛飾北斎(1760~1849)も同時代の人です。江戸文化が花咲いた頃でした。

小浜の写真師、井戸米蔵が明治末期から大正にかけて撮影された北前船(WIKIPEDIAより写真転載)

北前船は、上方から瀬戸内を通り、関門海峡を廻って日本海を北へ航行して、蝦夷へわたったのです。

其々の寄港地で商売しながら蝦夷を往復しました。物流の大動脈でありました。
当時は太平洋側より日本海側で経済文化が殷賑いんしんを極めました。

上方からは酒や米、衣類を積み、蝦夷からは鰊の魚粕ほしか、荒巻鮭や昆布を積み、各寄港地の廻船問屋へ商材を卸していった。
この時代になって、こめ経済から木綿などの商品経済に大きく変化しました。境港は伯耆ほうき綿で賑わった。ところが明治以降、木綿は英国綿に席巻され、日本産の綿は壊滅同然となってしまった。

徳助の森脇屋は、北前船の廻船問屋として幾分の財をなしたが、幕末から明治に入り木綿の商いの衰退と共に店を閉じた。祖母 ため は生前、伯耆綿の品質の良さを我が事のように自慢していた。

既に、売却処分してしまったが、森家には三振りの刀が伝わっていた。うち一振りは軍刀、あと二振りは江戸時代のものだった。
士農工商の身分制度から言えば最下位の商の身分であった徳助に、苗字帯刀が許されたとは思えない。おそらくは後の養子縁組で刀が伝わたと見ていい。

徳助は一男二女の子があった。長男は夭折し長女ツネ(1866/5没)、次女デン(1889/4没)の娘二人は成人した。デンは何と享年101才という長寿だった。デンは子供を授からなかった。
この時代、子供がいなければ養子を貰うのはごく自然だった。特に子沢山の親戚に相談すれば、話はすぐにまとまった。

1963年頃の米子市駅前

姉ツネの子の ため(1964/12没68才)を養女に迎えました。

ツネは米子の小学校教師の栄藤に嫁いでいた。その子ためが森家に養子に入るとき譲り受けた刀が森家に伝わった。

後に、ため政孝(1980/11没)を婿養子に迎え、森家を継がせた。ここに至って、森脇屋徳助の血筋は無いも等しく、生物学的に繋がっていません。ただ森家の系譜となってしまっています。

政孝の出自は分からりませんが、銀行員だったから商家の筋だったのでしょう。当時米子には米子銀行しかなかった。だが、政孝が米子銀行に勤めていたかどうか不詳です。

政孝ための子は長女、長男茂雄あつお、次男眞佐夫まさおだった。茂雄が私の父で、米子中学校を卒業し、東京の高等師範学校へと進んだ。
長男には教育にも金もをかけたが、次男は「厄介やっかい」といった気分が残っていた時代で、真佐雄は中学にも行けなかった。

森家の長男が教育界の最高学府、東京高等師範に進んだことは、森家の誇りであった。特にための実家の栄蔵は小学校教師のだっただけに、飛び上がるほど喜んだ。茂雄は森家の自慢だった。

森茂雄 箱根駅伝に参加

父茂雄は、高等師範のとき箱根駅伝の第7区を走った。家族の中で唯一スポーツマンであった。

時代は戦時中、学徒出陣の後についに招集され満州へ行った。
満州で上官と喧嘩し、右人差指を負傷し内地に還された。広島大本営に出頭、福知山へ転属した翌日、広島の原爆を知った。父は幸運にも戦わずして終戦を迎えた。

日本という国は、明治末期から大正の「踊り場の時代」を経て、封建時代の残渣というべき地縁や血縁に依らず、個人の能力によって職業を得ていく時代になった。さらに戦後日本の変革は家長制という家族主義が崩壊した時代だったといえます。

戦後は混乱期であったが、父茂雄は岡崎中学の教員募集に応募し採用となった。地縁も血縁もない岡崎の中学校に勤めることとなった。岡崎中学はすぐに新制の愛知第一師範学校となり、その豊川分校が勤務先となった。後の愛知教育大学です。

茂雄は、岡崎勤務の頃に芳子と結婚した。茂雄がアキレス腱損傷で入院中に芳子と出会って結婚することとなった。二人は恋愛結婚だった。時代は変わった。日本の家族は結婚観まで変えていった。戦後で物資の無いなかで家族だけの結婚式が行われた。

戦争の世紀といわれた時代に、多くの人が戦争で命を落とした。自由は制限され人権は蹂躙された。フェイクとデマで混乱した。しかし戦後になると、人々の雰囲気は一挙に解き放されました。
貧しかったが、自由な雰囲気に人々は酔った。そして人々はまっしぐらに高度成長、その先に世界的な経済ショックを何度も味わう「経済の時代」となった。

その後、父茂雄は岐阜県教育委員会に転出した。岐阜県立の多治見北高校、美濃加茂高校、本巣高校に転じ、羽島北高校の校長を最後に退職した。

退職後まもなく住み慣れた岐阜の家をたたみ、静岡県掛川に家を新築し引っ越した。その6年後、父茂雄は75才癌で亡くなった。

1999年3月ニューカレドニアのIls des pinにて

余りに、転勤転居が多かったせいか我家は、家に対する未練がない。

静岡県掛川の家も父が亡くなった後3年後には、まだ新築の匂いがする家を売却し、母は妹の暮らすニューカレドニアへ移住した。18年間も暮らした。

2015年に母芳子は日本に戻り長男の一夫と暮らすこととなった。私一夫は54才のとき妻を亡くした。長男大一郎が20才、次男義久が18才のときだった。今では共に家庭を持ち子供(孫)もいる。

身分や格式といった出自来歴に関心が及ばなくなるまで、日本では長い時間がかかった。いま人権というかたちに置き換わって、個人が尊重される時代になった。人種や出自によって差別されることのない時代となった。

マンション住まいで「鯉のぼり」年に一度
も揚げるところもなく、虫干しをしてます。

これから半世紀50年後は孫たちの時代。

5月5日のこどもの日に鯉のぼりを虫干ししてみたら、吹き流しに家紋が染め抜かれていた。

半世紀もしたら、孫の誰もが家紋があることさえ忘れ去っていることでしょう。時代は変わるでしょう。

日本の家族は変化するでしょう。Familyは繋がっていても住む場所も自由化されて暮らしていることでしょう。
日本の家族制度や地縁、血縁のルーツなどにこだわりを持つこともなくなることでしょう。

そのためにも、是非、戦争のない平和な世界をつくりあげて欲しいと願っています。

 

オフクロの介護

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介護ベッドオフクロの介護が本格化したのは、今年(2021年)に入ってからです。
2/9 酸素吸入が始まり、3/12 介護ベットを入れ、週3回看護師、週4回ヘルパーさんに来てもらうようになりました。

次第に体力が衰えてきましたが、これまで介添えが必要な状態ではありませんでした。しかし介護が必要になってしまいました。

どこから介護と言うのか人それぞれでしょうが、痴呆排泄の問題が起きてからが、本格的な介護だと思います。オフクロは痴呆は全くありませんが、排泄の問題には直面しました。

自宅の居間に介護ベッドを搬入設置し、酸素吸入をして、尿管を挿入してからは、一切ベッドの上での生活になりました。
ベッドからトイレへ行けないから大便の排泄が問題になります。週3回 看護師の訪問を受け、座薬や浣腸で便を掻き出してもらうしかありません。オフクロは、息子にしもの世話をさせるのをいやがります。

食が細って大便が少ないうえに、便秘気味で、下腹に力が入らず、大便が出難くなります。看護師やヘルパーさんに面倒を見てもらい、下剤や座薬などを使って、大便をほじくり出さなくては出ません。これは大変なようです。

近くへ買物にいく程度しか外出ができなくなりました。誰かもうひとり家人がおれば良かったのですが一人での介護は大変です。

母と息子一人の介護奮闘記「老母絢爛けんらん木石ぼくせきも動く」では、痴呆が入ってきた母の介護日記で、実に凄まじい。大小の便の排泄が生々しく、痴呆で目が離せない母の介護に奮闘するさまは凄い。これからみれば自分などまだ生易なまやさしいと慰められたほどです。
本格的な介護は、痴呆と排泄です。特に、排泄介護は誰も必ず通る道です。

定期往診いただてる主治医の診断レポートに書かれていました。

ご子息とご一緒にいる安心感、人生を受け入れるご本人のお気持ち、看護師、ヘルパーさんの尽力によって、とても穏やかにお過ごしです。

少しばかり心強く、安心し、介護する気持ちが楽になりました。

御書命と申すものオフクロがいつも座る場所に御書の一節を貼ってあります。

命と申すものは一身の珍宝なり、一日もこれをぶれば千万両のこがねにも過ぎたり

オフクロの強い意志もさることながら「一日の命」は宇宙の至宝との信念を疑わずに、人生終末期の闘いに挑んでほしいのです。これは介護を受ける側(オフクロ)の心得です。

一方、介護する側(自身)の心得もあるように思います。…ふと思い起こしたのが後藤新平の自治三訣です。

「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そしてむくいを求めぬよう」(後藤新平の自治三訣)

ボーイスカウト初代総裁になった後藤が、大正14年(1925)に「自治三訣 処世の心得」として発表したもので、後にボーイスカウトのモットーとなったものです。

実は、オフクロの母(祖母)の妹、きみは後藤新平の妻でした(正確に言えば妾で後妻)。だからこの自分も後藤新平の遠い縁者に当たります。この自治三訣は家訓にしてもいいほどに気に入っています。【きみとスマの来し方(ヒストリー)参照】

ついでながら、後藤が初代校長となった満州哈爾賓ハルビン学院の校訓でもあります。ここを卒業した杉浦千畝すぎうら ちうねもこの校訓を覚えたことでしょう。(杉浦千畝:ナチス・ドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人を救ったリトアニア大使)遠い親戚縁者に後藤新平なる偉人をもったことを誇らしく思っています。

話がれてしまいました。介護の最終は命の終焉であります。恢復をめざす看病とは違います。そして介護は誰しも身にりかかる問題なのです。人として当たり前の道だということです。

健常と医療の間にあるのが介護です。介護施設では医療行為は出来ません。介護から医療に委ねる時期をどう過ごすかは、介護を受ける側にとって実に重要です。

今年4月、オフクロは重篤な状態を脱し、命をつなぐことができました。医師が見放しても恢復することがあります。人の命は不思議というか「妙」なものです。
親子・身内の介護で、日一日と命を延ばすこともできます。最後の最期まで在宅で過ごしてもらうつもりでいます。

介護も重症・長期化すると、介護者が心身健康であることが大切になります。介護者のためのレスパイト入院も一つの方法です。
レスパイトとは介護する側の一時休息です。時々入院も在宅介護の在り方です。親身になって付き添い介護できるよう、穏やかに過ごすことができるよう、一日でも命を延ばせるよう、そんな介護で在りたいと思っていますから。

介護受ける者の信念と介護する者のお世話が大切だと思います。最後にもう一度御書の一節をひいて、オフクロが一日でも長生きするように願い、この稿を締めくくりたいと思います。

命と申すものは一身の珍宝なり、一日もこれをぶれば千万両のこがねにも過ぎたり