後藤新平は、大正7年61才のとき、妻和子 (52才)を亡くします。
和子は新平の恩師安場保和の次女です。新平の親友だった 新渡戸稲造(56才)は、和子夫人について、このように言っています。
後藤和子夫人の生涯は、種々なる点い於いて、平常人より遥か以上に恵まれていたと同時に、一生を通じて、又その日そのひも、我慢の生涯であったやうに推量される。
憂きことのなおこの上につもれかし
かぎりある身の力ためさん
との歌の意味が最もよくこの夫人の心掛けを表はしたものではなかろうか。
新平と和子との間には一蔵、愛子の子がありましたが、きみの子供とは親子ほどに年が離れていて、喧嘩にも話にもなりません。
明治時代、妻妾同居などと、とんでもない時代もありましたが、さすがに、きみも本家には近寄り難く、本家の一蔵も きみの一家のことを隠そうとしたそうです。
きみと新平との間には6人も子供がいました。上から、兵衛、武蔵、松子、多満子、清、小五郎です。
後藤新平は、和子亡き後も、きみの子供を実子として入籍させませんでした。しかし、私生児の不遇を招かないよう、子供達を養子に出しています。兵衛は藤田家に、武蔵と松子は京都の下村家に預けられます。多満子は岩手一関の四竈家へ養女とし、小五郎は新平の実弟の養子として育ちます。
きみも花柳界の育ちですから、子供の将来を思ったら辛くても養子に出すしかないことをわきまえたのでしょう。
ところが、昭和4年桜散る頃(4/13)、旅先の京都にて後藤新平は72才で急逝してしまいます。きみはまだ33才の若さでした。
新平亡き後いろいろあったようですが、
きみは息子四人と娘一人を河崎の養子として引き取り、昭和6年阿佐ヶ谷で、子供達と一緒に暮らすことができました。
きみ35才の頃です。
その頃(昭和6、7年)、姉の小林スマも阿佐ヶ谷に住んでいます。河崎きみと小林スマの子供達は、いい遊び仲間だったようです。
オフクロの思い出話に、河崎の家でのことが、しばしば出てきます。例えば小説の中にある「武蔵がそそのかして、清と小五郎に、二階の欄間をくぐらせた」ことを思い出し、笑ってました。
さて、姉の小林スマの話をしましょう。スマは小林又一の鳥料理割烹の仲居でした。
スマは又一の二号として子供をもうけます。正妻には子供がいませんでしたので、正妻が亡きあとスマは、後添えに迎えられます。
そして、スマの子供は全員小林の性を継いでいます。
スマには5人の子供がいました。上から貞之助、文子、千代子、美佐子、芳子(オフクロ)の5人です。スマも子沢山でした。
きみは72歳で亡くなりましたが、スマは91才まで長寿でした。