信心に定年なし

この記事は3年以上前に投稿された古いものです。

法則に適った前進の前には、迷路などはない。
この我々の軌道を突き進んでいけば、確固たる大勝利の大空が見える。日本中、世界中かの報告を聞き、同志からの手紙を拝見し、多くの友に指導し、また激励し、さらに集中して原稿の仕事をする。一息つくと、もう夕方である。

この時、ちょうど八王子の東京牧口記念会館にいれば、しばしば光と光が相寄って輝く、新しき美しき夕焼けに目を奪われる。あの「夕焼け小焼け」の童謡にに歌われた八王子である。
活気あふれて賑わう、限りなく高貴な我が同志たちの強さと、勇気ある正義の態度は、あまりにも喜ばしい姿だ。

帰り道、嬉しい気持ちで外に出れば、オレンジ色に燃えた大空を背にして、雄大なる、限りなき壮麗な富士の山が見える。その最も美しき光景のなかを、静かにして永遠の勝利の光を放ちゆく太陽が、刻々と沈んでいく。

それは、一日の終りという感傷など消し飛ばし、戦いきった生命力で、再び新しい一日への大いなる挑戦を人間に呼びかけるような、まことに荘厳な光景だ。
太陽は常に、輝き光っている。人の目が夜は届かないだけで、どんあ時も赫々と燃えているのだ。

我ら人間の生命も同じである。生死不二であり、その当体は三世永遠を貫いている。
喜びに光り、盛んな勢威の証である夕日は、明日の晴天を約束する。
我らの充実した人生の総仕上げは、永遠わたる幸福の軌道を約束してくれるのだ。

夕日は、優しく美しく、荘厳に沈みゆく。人間もまた、そうあらねばならなぬ。年を重ねるごとに、深い悲しみゆえに老けていくののであってはならない。
強さと勇気ある生命をもって、胸に充ち満ちたる希望を失うことなく、生き生きと最終章まで生き抜いていくことだ。

我らの生き甲斐の究極である広宣流布に、尽くしきっていくことである。

限りなき崇高なる太陽には、休息はない!永遠に私たちのために歓呼して、灼熱の無限の力をもって我らを照らし、生きゆく原動力となってくれるのだ。

方程式を同じくして、仏道修行に引退はない!
今年は戦後六十年。ベビーブームに生まれた「団塊の世代」にも、定年の節目は近い。空前の少子高齢社会の今、豊かな老後の生き方が模索されている。

定年によって、張り詰めていた心の糸が緩み、生き甲斐や目標を見失う人もいる。定年を引き金にした悲劇も生まれやすい。
そんな世相だからこそ、わが学会員の躍動がひかる。

定年後も、友のため、地域のため、社会のため、はつらつ行動する姿は、偉大なる信仰の実証である。

特に、平日の昼間から動きに動き、今や各地のたくましい牽引力となっておられる。「太陽会」の奮闘ぶりは、まことに目覚ましい。

青年部から進出したばかりのヤング壮年部も、「太陽会」の勢いに、大いに刺激を受け、負けじと頑張っている。

多宝会、宝寿会、錦宝会の壮年はもちろん、婦人部の皆様方も、ますますお元気であり、本当に嬉しい。

御聖訓には、「年は・わか(若)うなり福はかさなり候うべし」(御書 P.1135)と仰せである。
広宣流布に戦えば戦うほど、若くなる。福徳が増していく。学会活動ほど、尊く、有り難いものはない。

会社に定年はあるが、信心に定年はない。退いてしまえば負である。子どもは成人し、孫もできた。生活は安定した。だからといって、そこに安住しては人生の最終章を飾れない。

過去にこれだけやったという慢心。新しい挑戦を避ける臆病。若い人への遠慮。そんな心の隙間に?老い?は忍び寄ってくる。

最後まで戦い続ける人が、一番偉い。一番若い。不老の生命である。一番円熟した、人生の勝利者である。

戦う心を失えば、五十歳でも老人だ。炎の心で前進すれば、八十歳でも青年だ。  (中略)

なんのために、生きるのか。なんなのために、長生きするのか。
それは、わが使命たる広宣流布のためである。
ゆえに、我らは一生涯、「健康長寿の信心」を貫いていくのだ!「絶対勝利の信心」を、あとに続く青年に示し切っていくのだ!赫々たる太陽の如く!