大正デモクラシーへの道程

この記事は3年以上前に投稿された古いものです。

大正デモクラシーについて勉強してるうち、もう少し書き足したくなり、前回Blog“大正デモクラシー“の追加、補足として投稿します。

明治維新とは、長期に続いた江戸の幕藩体制の行き詰まりから生じた、ある種のクーデターだとも言えます。それは武力闘争、権力闘争であり、革命ではありませんでした。
明治維新の勝者となった人々は元老となり、公家(貴族)と共に政府・権力を縦にしました。それが明治時代だったと言えます。
しかしながら、その後、敗者である賊藩の中から人材が輩出して来ます。そういったところに日本という国の底力を感じます。

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原敬、斎藤実、後藤新平、米内光政など政治家や、新渡戸稲造、佐藤昌介、三田義正など教育者(知識人)は、賊藩の出身です。
そうした維新が終わったあとの群像が、大正デモクラシーだと言っても良いのではないでしょうか。

ちんば下駄を履いた”貧乏書生の後藤新平”。エブラル神父にフランス語を習う学僕”ダビデ原”こと原敬。賊藩の出身だからこそ青雲の志を秘めた、その少年たちのかんばせに、大正デモクラシーの生い立ちの素顔があります。しいたげられたが故に、多くの優秀な人材が輩出しました。歴史にはそんなパラドックスがよくあります。

これまで藩閥の元老げんろう官僚政治から、選挙による政党政治へと、時代は替わりはじめていました。
これを「原敬」と「山県有朋」との対比で見ると確かに解りやすいのです。著者:川田稔は政治史政治思想史を研究する名大名誉教授です。大正時代の歴史を紐解く大家だけのことはあります。

大正デモクラシーとは、普通選挙が始まってできた政党(政友会、国民党)政治の先駆けとなった時代なのです。
藩閥政権の頂点にあった山県から、政友会の原に移った時期こそ大正デモクラシイーの絶頂にあった時代と言えます。
またこの時期は第一次世界大戦[1914(T.3).7~1918(T.7).11]に当り、日本も中国(支那)を舞台に、国際的な覇権争いに加わろうとしていた時代でもありました。

元老会議の中心的存在になっていた山県有朋は、第2次大隈内閣[1914(T.3)4~1916(T.5)10)]、寺内内閣[1914(T.5)10~1918(T.7)9]を蔭で操り、日本の外交政策として、中国を全面的に日本の統治下にすべく、いわば侵略政策を推進する側にいました。対華二一ヶ条要求日露協約、段祺瑞を支援した援段政策西原借款シベリア全面出兵など、北支侵略支配を足がかりに、中国全土への侵略政策を企てていたのであります。

少し横道にそれますが、山県はこんな言葉を残しています。「人は権力を離れてはならぬ事なり、故に自分も権力を維持する事には心を尽し居る者なり」と、山県の藩閥・権力への執着心が読み取れます。平民宰相 原敬とは余りにも対象的です。

これに反対して原敬は、宥和を図り南北妥協こそパワーポリティックスの面から有利だとの立場をとっています。原は天津パリでの外交官の経験から、国際感覚を培った史観を持ってました。

山県率いる寺田内閣は、密謀的に援段政策を進め北支侵略を優先し、更には中国全土を支配しようと企てます。しかしながら予期せぬことが起こります。それはロシア革命の勃発です。
これによって一挙に中国侵略の戦略が破綻を来します。そして、日本は国際的に孤立状態に陥ってしまいます。

国内では米騒動が頻発、外交戦略の破綻が原因となって、原内閣[1918(T.7)9~1921(T.10)10]が誕生したとも言るのです。元老官僚政治から政党政治へと大きく歴史的転換を迎えました。

政党政治の中心は政友会で、当時の総裁は原敬でした。もともと政友会は伊藤博文が創設し、政友会初代総裁でした。

伊藤博文

もし伊藤博文がハルピンで暗殺[1909 (M.42)10.26]されていなければ、もっと早く円滑に政党政治へと移行していたかも知れません。

原と山県の対立構造の中から、原内閣が具体的にどのように誕生したのか実に興味深いところです。
山県系の藩閥官僚維持を、頼める人物は居らず、山県は止む無く再び西園寺公望を首班指名します。しかしこれも固辞されてしまいます。西園寺は 1次[M39.1~M.41.1]、2次[M.44.8~T元.1]と、既に2回も内閣に就き、情勢をよく知っていました。西園寺は受諾せず、原を推薦します。山県も「百計尽きたる」に及んで、原啓を奏薦せざるを得なかったのです。
原敬は「山県の意中を知ることを望む程の馬鹿々々しき事なし」と、山県が奏薦するまで動きませんでした。自然に熟れ落ちるまで待って、首班指名を受諾しています。

ここに初めて政党政治の内閣が実現しました。原内閣の組閣は、議会を基礎に政友会が殆どのポストに就きました。将に「政党政治の第一歩」となりました。[1918(T.7)9.29]
ただ、陸海軍の大臣だけは長州・薩摩の軍閥だったのです。

そして原は、山県とは180度違う政策を断行してゆきます。
中でも、国家財政10%の削減、地方官吏1万の人員整理は、山県の藩閥官僚勢力に大きな打撃を与えることになりました。まさに大衆の声、”憲法擁護”、”閥族打破”に応える形となったのです。
更に、教育・交通(鉄道)・産業・国防、即ち「四大政綱」を勧めていきます。

原内閣の下、日本の外交政策も大きく変わっていきます。これまでの北支への借款供与、武器供給は停止し、列強の不信感と反発の払拭に努め、中国内政不干渉の姿勢を明らかにしていきます。ときあたかも、第一次世界大戦が終結した[1918(T.7)11]時でした。

大正7年日本橋

そして大衆も新しい時代の意識に昂まりました。それは平民意識でした。平民は当時流行語にまでなります。平民新聞、平民食堂まで産まれました。大正デモクラシーとは平民意識です。これが日本的な民主主義のはじまりでした。

原敬 東京駅の暗殺現場

しかしながら誠に残念なことに、原敬は1921年(T.10)11.4東京駅で暗殺されてしまいます。
原敬が亡くなった3ヶ月後、奇しくも山県も病没します[1922(T.11)2.1]。
何か一つの時代に、終止符が打たれたような印象を感じます。

大正デモクラシー以降、日本の民主主義の萌芽は、戦争によって摘み取られてしまいます。戦争の時代の始まりは、間違いなく満州事変[1931年(s.6)9月]でした。これ以降日本は軍閥の時代、戦争の時代へと突き進んでいくのです。

満州事変は、単なる関東軍の偶発的な独断などではありません。以前より陸軍の少壮幹部によって密かに企てられていたことが、最近の研究で分かってきたそうです。この軍閥の流れは、第二次世界大戦の終戦まで続いてゆくのです。

何故、どのようにして、大正デモクラシーから戦争の時代へと進んでしまったのか?これは次回のテーマにしたいと思います。

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「大正デモクラシーへの道程」への1件のフィードバック

  1. 今年(2018年)は、原敬の政党政治の内閣が出来てから100年目です。
    同時に第一次世界大戦が終結してから100年目でもあります。
    100年経てば、歴史研究の対象となり、全てが明らかになります。政党政治に賭けた当時の政治家の熱き想い、平民意識に見られる昂揚感が偲ばれます。今日の政治にこんな熱い想いがあるでしょうか?
    100年目にして、民主主義の原点に、もう一度想いを馳せたいと思います。

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