写真に興味を持つ人で、ロバート・キャパを知らない人はいないと思いますが、1930年代から1954年に没するまで、戦争の時代に生きる名もない人々を撮った報道写真家です。
ロバート・キャパこと本名Friedmann Endreはハンガリー生まれで決して裕福な家の生まれでなかった。世界恐慌で親の仕送りが途絶え、ドイツの写真通信社の暗室補助員として已む無く就職。それが写真家への出発になりました。
スペイン内戦、日中戦争、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線、第一次中東戦争、および第一次インドシナ戦争での写真の数は膨大で約7万枚もありました。喪失したもの没収されたものもあります。
写真集として弟のコーネル・キャパが選んだ937枚が写真集となっています。
戦争の生死の際に立たされた人々のスナップは、感動的でもあり描写力もって迫ってきます。
この写真は暗室補助員から、写真家へとデビューさせた写真です。キャパ20才の作品です。
パリで知り合ったゲルダ・タローと恋に落ち、その頃の幸せな一枚がこれです。
ゲルタ・タロー(本名Gerta Pohorylle)の企みで、米国著名な写真家「ロバートキャパ」との触れ込みはバレました。
しかし、それ以降、ロバート・キャパと名乗りフリーの写真家となりました。
では、ロバート・キャパの写真集から感動の写真を選んでみました。僭越ながら個人的なコメントの加えました、御覧ください。
崩れ落ちる兵士は、写真集の表紙を飾るほどに有名です。
こんな瞬間に遭うのも珍しいが、当時のカメラで、この瞬間を撮るのはかなり難しかったでしょう。
1937年7月スペイン内戦で、写真家ゲルタ・タローは戦車に轢かれて亡くなりました。
キャパとタローは、たった4年の付き合いで終わりました。
この悲しみの写真の裏に、そんなでき事があったのです。
この写真に写る少女の眼差しが印象に残ります。
キャパの写真には、爺さんと子供の写真が多い。絵になります。
主題がどちらか判らないが、戦禍のなかで一時休憩のような、日差しが差し込んでいるような、パリのメーデーの光景です。
この後、悲惨な世界大戦(ヨーロッパ戦線)がパリを襲います。
老婆の気品を伝える見事な写真です。爺さんや婆さんを映す時はいまもモノクローム(白黒)がとてもいい雰囲気を出します。
この笑顔を見たらもう忘れることができない。
日中戦争の戦禍に比例して命輝く笑顔があるのでしょうか?
忘れ得ぬ印象です。
義勇兵の男の顔です。真剣な眼差しが語っています。
頭上部がはみ出た構図です。こんな構図をキャパはよく使います。だから迫力ある写真が生まれる。
子供たちの命の煌き輝いている。身を乗り出して見つめる姿には歓喜と勇気が湧き起こっているようです。スペイン内戦の戦禍のなかのバルセロナ、明日は疎開する子供たちです。
キャパの写真には子供たちを撮った写真が多い。これも子供たちの表情が際立っています。ツール・ド・フランスに夢中です。
キャパはアメリカでヘミングウェイの取材をしています。
書斎の様子でしょうか、この構図も頭の上部がはみ出ています。何気ないポートレイトですが、迫るものがあります。
禁酒の掟を破って飲みに来る客とそれを接待する女たち。
ヨーロッパは戦場と化していた頃、世界恐慌さなかのアメリカの一コマです。
男の物悲しさが印象的です。
一歩引いて撮っている写真です。
何処か外の世界を暗示しているようです。
オブジェクトは、人物でなく写真の中央の「手紙」が主題です。
1940.9~1941.5にかけてドイツはイギリスに大規模な空爆を行った。
4万3千人が亡くなり、100万人が家を失った。
この防空壕に怯えた空気はない。あるのは思いやりと静けさでした。
静かに忌まわしい歴史が去るのを待つかのようです。
今回のヘミングウェイは穏やかのある日を思い起こすような写真です。
ここでもキャパは、老人と子供の取り合わせを選びました。
これがキャパのアングルです。
「アメリカ人将校と部隊が養子にした」少女たちの間に、信頼と希望が漂っているようにみえます。
戦闘の跡の瓦礫の上で、男と少女が話をしている。
これからの話しをしているのだろうか?二人の表情は明るい
全て無くなった後、それでも希望が語られている。
捕虜となったドイツ兵に哀愁が見事に迫ってきます。どちらも画面いっぱいに撮られているところがキャパの構図です。
イタリア激戦地カッシーノからの避難を撮っている。沈黙の中に決意が伝わってくる。瞬間のスナップはドラマの一瞬です。
姿見に焦点が当たってそれが主題になっています。
カッシーノ付近では4ヶ月ほど大規模な戦闘が行われた。
町は荒廃し、多くの人が命を落とした。
彼女達は救急車の運転士だったのです。
激しい戦闘の合間にも黙々と目の前の仕事を、編み物をしている姿を捕らえてます。
人間の生きる強さが、この女性たちから伝わってきます。
何度もヘミングウェイを撮っています。
これはロンドンで事故にあったヘミングウェイです。
ヘミングウェイの眼差しが何かを語るようです。
迫力ある写真です。
ドイツ・ナチス親衛隊の将校が毅然と見えます。どちらが勝者かと思うほどです。
この写真も将校の頭上部が写真からはみ出ています。
主題を切り取るテクニックは、キャパの特有のテクニックかもしれません。
ノルマディーの戦闘の後、捕虜になったドイツ兵、それを見に来た民衆です。
これが終戦という歴史の瞬間です。
戦車で鼻をほじくる少年。
ナチス占領から開放されたパリの一コマです。
この写真はパリ開放の翌日です。シャンゼリゼ通りは戦勝パレードが行われていた。キャパが切り取ったのはパレードではなく、この超然とした少年でした。
キャパにとってパリは、タローと一緒に幸せなひとときを過ごした街でした。
パリが開放された喜びを戦車の向こうにいる女性に焦点を当て、表現しています。
(残念ながらタローではありません)
これもパリ開放の写真です。
爺さんと少年はキャパの好きなアングルでした。確かに絵になります。
爺さんはこれまでの苦渋を噛み締め、少年はどこか未来を見つめているようです。
パブロ・ピカソのポートレイトです。
ポートレイトも上手い。
ドイツではまだ敗戦となっていない時期です。
この写真は当時の日常だった。
戦争は人(民間人)をこのように扱った。
連合軍の兵士がドイツ兵を足蹴にしている。
この写真は出版禁止となったが、キャパは戦争とはこういったものだと言いたかったのしょう。
たまたま現場に居合わせて撮った生々しい写真です。
若き伍長は即死だった。この後に残ったのは、ただただ静寂だけです。
アメリカに渡ったキャパが、ハリウッドで撮った写真です。
ポートレート写真の旨さが光ります。
これはポートレートじゃありません。
ウクライナでは男が殆ど戦死して、残されたのは女だけ‥それをスナップ写真で撮って語りかけています。
戦後のアンマッチを映しています。
このときから8年後、ハンガリア動乱が起こるのですが、一見平和を装ったスナップとなりました。
キャパの好きなテーマで、老人と子供。
キャパは、やはり老人ピカソと子供の写真を撮っています。
ここはアメリカ・インディアナです。それも戦勝ムードが漂う頃のアメリカです。
1939.1バルセロナ_市外へ避難する前にピエロの芸を見る子供たちの写真とは緊張感が違います。
キャパはチュニジアに向かった。
戦闘が終わって、帰郷する列を映しています。
遠近法を使った構図が良いですね。
炎天下、新しい祖国に到着したばかりの母と子供です。
これを家族と言えるでしょうか。母と子の二人だけです。
母のスカートにすがるように歩き続ける子供の気持ちが伝わってきます。
戦前のパリが戻り始め、カフェが賑わい始めた。
何気ない風景は、パリ開放という歴史を乗り越えて得たものです。
キャパは毎日新聞の招聘で来日しました。ただし、日本のカメラを使用するのが条件だった。
キャパが使った日本のカメラは、ニコンSだった。
ここでも老人と子供をアレンジした。
キャパの好きな構図です。
老人と子供、この老人何とも渋い、いい味を出しています。
何処だろう?皇居前広場でしょうか?
戦後、日本の雰囲気をよく掴んでいる。
何気ない平和な写真です。
キャパは日本からインドシナ戦線へ赴いた。
異国でも子供は無邪気です。ここの何処かで戦闘が繰り広げられていたのだろうか?
虚ろな視線が物語るものは何か?
何処かで戦闘がまた始まっていた。
キャパはここで地雷を踏んで亡くなった。これが最後の写真です。
ロバート・キャパ、40才でした。
もう既にお気づきだと思いますが、写真は全て年代順に並べました。つまり写真家ロバート・キャパの人生の順序です。
巨匠ロバート・キャパの写真で、モノクローム写真の勉強をさせてもらいました。
彼が使ったカメラは全て白黒フィルムの小型カメラです。今では骨董品です。今のデジカメから見ると実に使い難いカメラです。