名字の言より

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今日(2014/5/12)の名字の言に、以下のようにあった。誠にその通りだと思う。

myoujinogen生誕200周年を記念し、フランスの画家ミレーに関する出版が続いている。ミレーは、パリの南約60㌔のバルビゾン村に住み、農民の日常の暮らしなどを描いた。「落穂拾い」や「種をまく人」などの作品が有名だ▼農民の素朴さを丹念に描く画題を、しかし当時の美術界の権威だったサロン・ド・パリ(官展)は野蛮と評した。そんななか、ミレーは「我々は、いかなる所から出発しても、崇高に至ることができるし、目標が大きければ、うまく表現することができる」(『ミレーの生涯』井出洋一郎監訳)と、農村を描く誇りを持ち続けた▼両親の生き方を見て、先日、信心を始めた青年がいる。その話にミレーの言葉が重なった。彼は言った。「地道に毎日を送る親の姿から、信心の必要性を学びました。〝普通〟の人々に、喜びと前向きな姿勢を与えるのが、学会のすごさだと思います」▼信仰の真価は、「仕事の成果が出る」とか「試験に受かる」などの目に見える成果(顕益)以上に、生き生きと、悩みに負けず、人生を歩む日常の姿(冥益)にこそ表れる▼ミレーは、農民に「崇高」さを見た。仏法は、全ての人の中に「仏性」を見る。皆、かけがえのない存在なのだ。その可能性を開く対話運動に、誇りをもって進みたい。(由)

名字(みょうじ)とは、名字即の名字を取ったもので、名字即とは… 愈々(いよいよ)の心ですね。

御義口伝に云く法華一部廿八品の題号の中に信解の題号此の品に之れ有り、一念三千も信の一字より起り三世の諸仏の成道も信の一字より起るなり、此の信の字元品の無明を切る利剣なり其の故は信は無疑曰信とて疑惑を断破する利剣なり解とは智慧の異名なり信は価(アタイ)の如く解は宝の如し三世の諸仏の智慧をかうは信の一字なり智慧とは南無妙法蓮華経なり、信は智慧の因にして名字即なり信の外に解無く解の外に信無し信の一字を以て妙覚の種子と定めたり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と信受領納する故に無上宝聚不求自得の大宝珠を得るなり信は智慧の種なり不信は堕獄の因なり、御義口伝巻上 725ページ

仏法の奥義は見えにくい。仏法の本質は日常にあり、感じにくい。

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