三世師弟の縁、厚田

1977年10月1日に厚田の望来もうらいに戸田記念墓地公園が開園された。48年前のことだ。当時のことは新・人間革命第26巻の厚田の章に詳しい。

戸田先生の像は、はるかブッダガヤ(インド)に向かって、世界広布に立っている。

戸田先生と池田先生が共に初めて厚田を訪れた1954年8月10日は今から71年前でした。戸田先生53才池田先生26才の時です。その時、SGI世界広布を戸田先生は池田先生に託された。以来、池田先生の舞台は世界広布と決まった。

初めて創価学会の墓地公園が厚田に出来ると発表されたのは1974年のこと。正式決定を見たのは翌年(1975年)9月で、翌年1976年10月には着工され、その翌年1977年10月1日に開園されました。

開園のとき池田先生は「師弟の儀式」と位置づけられ「私にとって『心の故郷ふるさと』であります」と仰っています。「皆さんも苦しい時、辛い時、行き詰まった時には、この地を訪れて墓参し唱題して、恩師の心を我が心として、蘇生し帰って下さい。生死不二、師弟不二の旅を」と挨拶されています。

基本理念

  • 恒久性
  • 平等性
  • 明るさ

墓園には生死観が現れるし、本来そこには基本となる思想がある。この創価学会の基本理念が、初めて示されたのが厚田の戸田記念墓地です。この墓地公園を”人間蘇生そせいの憩いの広場”と意義づけられました。

いくつかの御書が引用されて、
その基本理念を紹介されている。

いきてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり、即身成仏と申す大事の法門これなり、法華経の第四に云く、「若し能く持つこと有れば即ち仏身を持つなり」云云。
  上野殿後家尼御返事
 
まず 臨終の事を習うて 後に他事を習うべし 
妙法尼御前御返事(臨終一大事の事)
 
けわしき山、あしき道、つえをつきぬればたおれず。殊に手をひかれぬればまろぶことなし。南無妙法蓮華経は死出の山にてはつえはしらとなり給え。釈迦仏・多宝仏・上行等の四菩薩は手を取り給うべし。 弥源太殿御返事
 
日蓮さきに立ち候わば、御迎えにまいり候こともやあらんずらん。またさきに行かせ給わば、日蓮必ず閻魔法王にもくわしく申すべく候。 弥源太殿御返事
 
滞り無く上上じょうじょう品の寂光じゃっこう往生おうじょうを遂げ、須臾しゅうゆの間に九界生死の夢の中にかえり来って 三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄)
 

老とは終局を待つ日ではない。今世の人生の総仕上げであるとともに、次の人生への準備期間なのである。 (中略) わが生命を磨き高め 荘厳な夕陽のごとく 自身を完全燃焼させながら 大歓喜のなかで この世を生き終えるのだ。(池田先生の指導から)

「荘厳な夕陽のごとく」支笏湖に夕日が沈んでいく光景

最近、”死”を考えるようになった。市井しせいの哲学者としてして知られる三木みききよしの「人生論ノート」の最初は「死について」です。

彼は「墓場をフリードホーフ(平和な庭)と呼ぶことが感覚的な実感をぴったり表していることを思うようになった」と言ってる。また「最上の死はあらかじめ考えられなかった死である」とも言う。

仏法上の死は、生死の死である。生きること死ぬことではない。生死としての”生”のあり方であり”死”のあり方である。”生”も生命であり、”死”も生命いのちのあり方で、生死の二法と説いている。

生死観からみた”死”について考えるようになった。虎や熊は死んで皮を残す。人は死んで師弟を残したい。実に何を残すか難しいといです。更に、どんな師弟に続くかで人生は決まってしまう。

三世さんぜ師弟していえにしを残そうと心に決めた。そんな折、厚田戸田記念墓園の新規募集を聖教新聞(9/5)で見た。不思議なもので丁度、妹と甥が北海道旅行に来て、厚田の戸田記念墓園を見たいという。

2025年10月2日に墓園で墓地購入手続きをした。奇しくも48年前の10月2日開園式が行われた日であった。SGI世界広布の原点を記念する日である。 桜の葉が少し紅葉し始めた晴天であった。

Aの7区は一部墓石が無く、ここが新規募集の区域
販売区域A-7(矢印)に購入を申込んだ。

無事、A-7区への申込み手続きを終えて、道の駅 厚田あいロードに立ち寄って夕陽を見ようと思ったが、まだまだ陽が高かった。

小樽、積丹半島の先に夕陽が沈む(石狩灯台から望む)

そこで石狩灯台から荘厳な夕陽を見て、札幌に向け帰途についた。なぜか気持ちが落ち着き、御書の一節がふと心に浮かんだ。

在々諸仏土ざいざいしょぶつど常与師俱生じょうよしぐしょういたるところの諸仏の土に、常に師とともに生ず」、
よも虚事そらごと候わじ。 生死一大事血脈抄