老後について = 魂が試される究極の場Old Age: The Ultimate Test of Spirit」の抜粋

この記事は3年以上前に投稿された古いものです。

私は80才を過ぎて、人生の新たな時代に入り、一人でいることを歳をとるに従い一層大切に思うようになっている。世を捨て完全に孤立して暮らすことはないと思うが、人と触れ合うことを極端に制限しており、その傾向はますます強くなってきている。

73才のときに、妻と私はサービス付き高齢者向け住宅に入居した。こんな風に高齢者だけ集めて、若い人と接する機会を制限するのが良いことだとは思っていない。

今にして思えば、私が最も活動的で多くを生み出したのは60才から75才にかけての時期(第2キャリア)だった。40才から60才までは、第2キャリアへ向けて意識的に準備をしてきた。

80才を過ぎると同時に「カウントダウン」の段階に入ったことを意識するようになった。死が迫っていることを示すサインが、そこかしこに現れたわけではなく、私はゆっくりと、いっそう世俗のものごとから距離を置くようになった。それは60才で現役を引退して第2のキャリアを始めたときよりも、あるいは75才になって出張や旅行を止めたときよりも、みごとにまでキッパリとしたものだった。

私はジックリ考えるのが性に合っており、今では自分の沈思黙考を奉仕(Servant)だと思っている。

最近になるまでは、未来があったことだ。過去としての現在に、究極はつながる未来である。しかし今は、未来はないし、実を言えば過去もない。あるのはただ、他人の過去と言ってもいいような経歴だけだ。「今」しかないのである。

今こうして、自分の経験を書きながら私が願っていることは、他の人達が、老いへの備えを、不確かなものに向き合う準備を、自分なりにしていこうと思うようになってくれることだ。

ゴルフや魚釣りや市民コーラス三昧の老後を送るつもりなら、何も準備をする必要はないかもしれない。しっかりした判断力がある間は創造的な、若い時とは違う生き方をして向上していきたいと思うなら、私の経験を見てもらえば分かる通り、備えをするのが賢明だ。

今にして思えば、深く考えるその時間は、長いものも短いものも、いつも私にとって貴重なものだった。議論が白熱しているときには、建設的なプロセスを展開できるよう、ほんの何秒か沈黙することが時には極めて重要になる。

これだけは確信を持って言える。備えるべきこととして、自分の老後を考えている人はみな、どのような準備をするのであれ、そのように考えなかった人より、豊かな老いを生きられるだろう。

老いへの準備として最も重要なのは、退職して生活が一変するする時が来ることを、若いうちから認識しておくことかもしれない。退職後にこそふさわしい第2のキャリアを楽しみにするなら、それに向けた変化を、エネルギーがあるうちに起こすこと、その準備をすることが重要だと思われる。

つまり、老いに伴うものごとへの備えは、「勇気」の欠如によって妨げられるということなのだろう。

勇気とはパウル・ティリッヒPaul Tillichが「生きる勇気Der Mut zum Sein」と呼んだもの、常に注意を払い、困難や苦悩や不安に絶えずさらされつつも、心穏やかに生きる勇気である。
そうした勇気が欠けていると誤った安心感が生み出されてしまい、老いに直面して、フォスディックが、

「人生を見通す力」と呼ぶものが自分にないとわかった時に、全く安心できなくなってしまう。ひいては老いを迎えた時に、平安を手に入れられなくなってしまう。

サインは常にある。人生を豊かにする考えに、気付かされるサインである。ただし、聞こえるものはいつも、そうしたサインに油断なく気を配っていると、圧倒されるほど多くのサインあることが分かり、どれを心に留めるか選ばなければならないほどだ。