「教育のための社会」へというパラダイムの転換

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私は、21世紀の教育を考えるにあたり「社会の ための教育」から「教育のための社会」へというパラダイムの転換が急務ではないかと、訴えておきたいのであります。

「教育のための社会」というパラダイムの着想を、私は、コロンビア大学宗教学部長のロバート・サーマン博士から得ております。

博士とは、私も何度かお会いし、そのつど深い識見に感銘を受けていますが、博士は、アメリカ SGI(創価学会インタ ナショナル)の機関紙のインタビュアーから、社会において教育はいかなる役割を果たすべきかを問われて、こう答えて おります。

「その設問は誤りであり、むしろ『教育における社会の役割』 を問うべきです。なぜなら、教育が、人間生命の目的であると、私は見ているからです」と。

まさに、卓見であるといってよい。こうした発想は”人類最初の教師”の一人である釈尊の教えに依るところが多いと博士は語っていますが、そこには自由な主体である人格は、 他の手段とされてはならず、それ自身が目的であるとしたカ ントの人格哲学にも似た香気が感じられてなりません。

それとは逆に、人間生命の目的そのものであり、人格の完成つまり人間が人間らしくあるための第一義的要因であるはずの教育が、常に何ものかに従属し、何ものかの手段に貶められてきたのが、日本に限らず近代、とくに20世紀だったとはいえないでしょうか。

そこでは、教育とりわけ国家の近代化のための装置として発足した学校教育は、政治や軍事、経済、イデオロギー等の国家目標に従属し、専らそれらに奉仕するための”人づくり”へと、役割を矮小化され続けてきました。

当然のことながら目指されたのは、人格の全人的開花とは似ても似つかぬ、ある種の”鋳型”にはめ込まれた、特定の人間像でありました。

教育の手段視は、人間の手段視へと直結していくのであります。
20世紀が、間断なき戦争と暴力に覆われた、史上空前の大殺戮時代を現出してしまったのは痛恨の極みですが、それは、テクノロジーの負の遺産である殺傷力の肥大化もさることながら、価値基準を人間に置かず、教育という人間の本源的な営みに派生的な役割しか与えてこなかった、近代文明の転換した価値観にも、大きく起因しているように思えてなら ないのであります。

それに関連して、私は、最近の「IT(情報技術)革命」をめぐる動きにも、一抹の危惧を抱いております。たしかに、 九州・沖縄サミットで採択された沖縄憲章に「21世紀を形作る最強の力の一つ」と謳われたように、「IT革命」が、21世紀のメガ・トレンド(巨大な流れ)になっていくことは間違いないし、わが国も、その流れに乗り遅れてはならないでしょう。

それもあってか、たとえば学力低下の問題を取り上げてみても、とくに理数系に顕著な学力低下の現状を放置しておくと、日本の経済や技術力に悪影響を及ぼし、IT 革命に突入しつつある世界の動きに後れをとってしまう――この種の指摘 が、大学関係者を中心に、しばしば寄せられています。
当然の懸念ではあります。グローバリゼーションの是非はさておき、21世紀の国際化の流れは止めようのないもので あり、鎖国時代ならいざ知らず、日本もその流れに身をさらさざるをえないからです。
それと同時に、私の抱く危惧とは、そうした学力向上への取り組みが、旧態依然たる「社会のための教育」という轍を踏んでしまいはしないか、ということであります。