「北海道の名付け親 松浦武四郎の足跡を訪ねて」

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松浦武四郎は文政元年(1818年)伊勢国一志郡須川村(三重県一志郡三雲町小野江から松阪市小野江町となる)に生まれ明治22年(1888年)に没す。

28歳から42歳の成壮年期に蝦夷地を六度にわたって踏査し、詳細な内陸地図(東西蝦夷山川取調図)を完成。

36歳のときは開国史上もっとも重大な年であった。領土拡大に燃えるロシアはプーチャーチンを遣日使節として樺太国境確定交渉に来た。

松浦武四郎は自伝に「ロシアよりカラフトの境界の事を申来りしが故、彼地の事を委しくなしたる者は無かと御尋にて、我が殊の外官より探されし由なりけり」と書いているが当時、松浦武四郎こそが蝦夷地にもっとも詳しい人物であった。

彼は幕府の蝦夷調査係として雇われ、1856年以後、三度、彼にして四・五・六度目の調査を行った。

明治二年、「蝦夷地道名国名郡名之儀申上候書付」によって「北海道の名付け親」と言われるようになった。

しかし、この「北海道」は、彼の「北加伊道」の本意を汲み取ったものではないことは明らかだ。

もし、彼の「北加伊道」を正確に意図する政策が取られていたなら、彼は六ヶ月間の短さで開拓判官を辞任しなかったであろう。

また、「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌」「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌」「近世蝦夷人物誌」が発禁とならずにその思想が広く受け入れられていたなら、我々日本人は植民地政策で自国の文化を押し付け、ことば、文字、文化、尊厳を奪うような愚かな行為をしなかっただろう。

松浦武四郎は日本人による暴虐に苦しむアイヌ民族の側にたった唯一人であり、その記録の中にこそ、私たちが進むべき道がある。

北海道の名付け親 松浦武四郎の足跡を訪ねて」より