きみとスマの来し方(ヒストリー)

後藤新平をご存じの方は多いと思います。台湾総督府長官、満鉄総裁、東京市長、ボーイスカウト総長など歴任した人物です。

彼は岩手県奥州市水沢(当時、陸奥国胆沢郡塩釜村)の出身で、肥後の安場保和男爵にみとめられ、須賀川医学校に入学・卒業し、名古屋病院長として出発しましたが…

個々の病人を治すより、国家の医者となりたい。

…と言うほどに、後に政治的な手腕を振るった人物です。一方、遊びも桁外れの人物で、「大風呂敷」と呼ばれました。所謂、一介の貧乏青年が掴んだ、権勢と地位をほしいままに、奔放に生きた人物です。

金銭を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。
人を残して死ぬ者は上だ。

など、多くの名言を残し、晩年ボーイスカウトの事業に打ち込んでいたなかで「自治三訣」として次の名言を残しました。

人の御世話にならぬ樣。人の御世話をする樣に。
そして酬いをもとめぬ樣。

さて、前置きが長くなりました。後藤新平の愛妾あいしょうのお話を致しましょう。愛妾といっても、昔と今ではとらえ方が随分違います。
昔は、男の甲斐性かいしょうなどと言い、正妻の他に二号さん(めかけ)がいてもおかしくない時代でした。例えば、伊藤博文のお梅、西郷従道の桃太郎、木戸孝允の松子、陸奥宗光のおりゅうはお妾さんです。
ヘタすると、二号の方が教養もあり、才覚にけ、人を見る目もあり、如才なきことも多かったのでしょう。だから当時、二号を後添のちぞえ(正妻)に迎えることも多かったようなのです。

芸者に身をやつしても、その気位きぐらいは高く、政財界に人脈を持っていた訳ですから、たかが芸者などとあなどれません。どこで誰が誰に通じているとか、ことの絡繰からくりまで知ってたでしょう。
花柳界で下手へたをすれば、政治家として命取りになるようなことも有ったかも知れません。特にその頃の待合い政治では…
また、芸姑には芸姑の世界が有って、その采配は表向おもてむききの政治家など、及び寄らぬほどの裏世界があったようです。

後藤新平と愛妾のきみは、どこか気心が合ったのでしょう。新平55才のとき、きみ(16才)が身籠みごもりり、新平に身受(落籍)されます。
年の差39才、親子ほど違う二人です。新平も老いて益々おさかんですし、吉三升よしみます(置屋)の桃千代こと、きみにとっては大変な上玉(後藤新平)を射止めたという処でしょうか。

みるみる内に大きくなっていくきみのおなかの子供が誰の子か、きみは最後まで口を割らなかったそうです。
後藤新平が訪露の旅から帰国してようやく、新平の子であることを明かしたそうで、この気丈きじょうさに新平も一目置いたのかも知れません。

ようやく、本題に入りたいと思います。

実はモリパパの祖母は、きみより4才年上の姉、水谷(小林)スマです。

オフクロから見れば、きみは母方の叔母です。

河崎きみと小林スマは仲が良かったのでしょう。オフクロも河崎家の人々をよく知っています。

詳しくは、小説「無償の愛、後藤新平,晩年の伴侶 きみ」に譲ることにしますが、著者河崎充代は武蔵の子で、多少は身贔屓みびいきに書いている処や間違っている処がありますが、小説では全て実名(今や故人)で書かれています。

(次ページに続く)

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