オフクロと暮せば

この記事は3年以上前に投稿された古いものです。

昨年5月、オフクロがニューカレドニアから帰国して9ヶ月が経った。
日本の暑さを乗切り、食欲も戻り、体調も整い、寒さの峠もあと少し、オフクロは依然日本食を楽しんでいます。今年桜の咲く頃には目出度く満90才を迎えます。
オフクロと暮せば」分かるのです。考え方もどこか似てるし、性格も変に似て可笑しくなります。何と言っても親子です。モリパパは、この歳になって、実に貴重な暮らしを体験中であります。

2015年12月封切りされた、山田洋次監督の映画。

映画「母と暮せば」は、まぼろしうつつの物語りですが、モリパパの「オフクロと暮せば」は、幸いなことに、物語でもなく、現実の暮しそのものなのです。

なつかしい話に盛り上がります。
例えば、岐阜市長良真福寺松籟荘での生活を知っているのは、今ではボクと母くらいなものです。長良小学校へ徒歩で通ってたが子供の足では実に遠かった。(GoogleMapで計測したら1.8Kmしかなかった)
その頃(S35年)は、誰も車を持てる人はいなかった。父はスクーターに乗って学会活動に走り回った。
父の運転するスクーターに、母、オレ、妹が乗る。まるで今のベトナムの光景だ。スクーターに鈴なりに一家4人が乗るのである。
一般講義だの、座談会だの、結構会合もあった。帰りに中華料理「金龍」に連れてってもらえるのが、嬉しくて、スクーターにまたがったものだ。まだ小学校6年生であった。父母も班長、班担で、夜遅くまで闘っていた。

そんな頃の、昔話をオフクロと二人ですると。それは違うとか、それはコウだったアアだったとか話が盛り上がる。オフクロの目は活き活きとしてくる。オフクロと暮らさなければ、こんなことは味わえない。昔話は実にいいもんだ。

イイじゃないか。面白がって、アアじゃコウじゃと言ってれば、親子の二人生活がこんなにも楽しいなんて、思ってもいなかった。発展性もなく、タダ言いたい放題で、こんな喜楽(誤字ではありません)な生活もイイじゃないか。

今年、正月6日に、ターコが家に来た。ターコとオフクロが会うのは12年振り? 家族のこと、4人の娘のこと、支部婦人部長で頑張っていること、とにかく話が尽きない。まるでターコのなき母親(もし存命なら72才かな)に報告しているみたい。
オフクロも話が止まらない。11時に来て、19時まで喋りっぱなしでした。

その3日後、珍しくタッチャンがやって来た。タッチャンもオフクロに会うのは4年振り?否、我が家に来たのは14年振りかも。 去年亡くなったタッチャンの母のことや、家族のこと、自分の出自のことまで、これまた話が尽きない。まるでタッチャンの母に話しているようだった。
14時に来て、21時まで喋りまくって帰っていった。

今年の正月は、オフクロが来て、我が家に異変が起きたみたい。
オフクロの可愛い孫ヒナノが2週間も我が家に泊まってくれたお陰でお正月らしいことが出来た。そして息子夫婦が大晦日に来た上、ターコは来るし、タッチャンまでもがやって来た。
オフクロと暮せば」我が家に人が大勢来るようになった。

ふと思い出したました。「女子は門をひらく・男子は家をつぐ」(上野殿御返事 p1566)といいますね。
兄弟姉妹の中で一人残ったオフクロは、今や唯一の生き証人です。だからでしょう人がやって来ます。長生きはするもんです。
賑やかなお正月になりました。

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