「柳新二橋」と言われて、東京の花街は柳橋と新橋でした。もちろん柳橋の方が格式も高く、新橋芸者などは一つ格下扱いされてました。(柳橋は江戸前、新橋は薩長土肥と言ったら怒られる?)
モリパパは上司にお供して「柳橋」に一回だけ行ったことがあります。上司(部長)は、元三井鉱山社長で元参院議員だった山川良一の息子です。社内では密かに御曹司と呼ばれていました。
柳橋の屋形船に芸者を招いて遊んだのですが、秘密めいて、艶やかな雰囲気を覚えています。
芸者さんが三味線を持って「一つ都々逸でも如何?」と言われ、都々逸なるものを全く知りませんから、赤ら顔をしてうつ向くだけでした。これが昭和初期の日本の遊び方だったんでしょう。今では想像もつきません。遊びも習事と同じ習わないと遊べない花柳界です。
きみとスマの親は、河崎のぶ、水谷栄三です。大阪から駆け落ちした仲だった。それほど栄三は、イケメンだったようです。(写真がないのが残念です)
その血筋を引いた、きみは勿論のこと、スマも美人だったそうです。
同じ姉妹でありながら、きみは花柳界にスマは料亭に、何故か人生を分かちました。それは容姿です。
花柳界には、容姿が良い娘を芸者にスカウトする「口入れ屋」がいたそうです。口入れ屋も真剣です。それに見込まれスカウトされ、きみは花柳界へ出ることに。それほど美人だったんですね。
スカウトにどれだけの金が動いたのか?今は知る由もないこと。
こんあ、あんな話も遠い過去となった昭和初期の頃の話ですが、
きみとスマの来し方(ヒストリー)を少し辿ってみて当時の雰囲気が想われました。
そして、それは遠い世代の話しでもありません。何か実感できる世代での話しなのです。暮らし向きや気風が想像つく、大正デモクラシーの時代です。
大正デモクラシーから昭和初期は面白い時代だったんでしょう。
普通選挙(昭和3年)、昭和金融恐慌(昭和4年)、満州事変(昭和6年)などが起きています。
明治維新の元勲や華族など、一部の特権階級が支配するような時代から、日本的ですが、一応民主主義の時代へ向かおうとする、時代だったのです。
人物を見ると、後藤新平(1857-1929)、新渡戸稲造(1862-1933)、板垣退助(1837-1919)、北里柴三郎(1853-1931)などの偉人を排出した時代でもありました。
この時代に興味が沸いてきます。
実はこの頃、創価学会が産声をあげています。牧口常三郎(1871-1944)が「創価教育体系」を出版したのが昭和5年のことです。
きみとスマの来し方(ヒストリー)は、モリパパにとって、他人事ではなく身内のヒストリーでもあります。
いずれモリパパも、孫の代の人から面白がられる時代も来るのかも…と思いながら書き綴りました。
(纏まりない拙文をここまで読んで頂き、有り難うございました)
(終わり)