スマの夫は小林又一。元々地元の亀戸町で、ちょっとした名士の家に生まれ、普通選挙が始まる前、推されて亀戸町議になりました。亀戸が東京市に編入された後は城東区区議となっています。
昭和初期、家業の鳥料理店の割烹から、待合い(料亭)「福住」を開業します。勿論、スマが仲居としてやり繰りし、又一は政治の方が中心だったようです。このころが小林家の一番派手な時代だったようで、日本橋三越へお付きを従えて買物をしたそうです。
昭和7年、亀戸が東京市に編入された頃、東京市では東京市疑獄として記録されるほどに、汚職事件があったようです。
日本橋魚河岸から築地へ移転するときの板舟権補償に絡む汚職。また続いて、京成電鉄乗入れ汚職などの事件が後を絶ちません。
更に、普通選挙導入(S.6)、市会浄化運動など東京市政を巡って、騒然とした東京都政だったようです。
亀戸で町議・区議をしていた小林又一は、何かの汚職事件に関連したのでしょう、詳しいことは分かりませんが、昭和6年前後に逮捕・勾留され、殆どの財産を没収されてしまいます。
勿論、区議を辞職し、待合い「福住」を手放し、私財も差し押さえられてしまいました。
小林スマとその子供たちは、この難を逃れるため阿佐ヶ谷に移転したという訳です。おそらくスマは、きみと連絡しあって、阿佐ヶ谷へ転居したのでしょう。
スマと子供たちは、阿佐ヶ谷での暮らしも程なく、高井戸へ移転、更に亀戸の平井に移り住んでいます。
後に太平洋戦争中、疎開のため阿佐ヶ谷のきみの家に同居した時期もあったようです。ですから、スマの家族ときみの家族は、親しい親戚付き合いになったようです。
モリパパ両親(森 茂雄と芳子)の結婚式(S23.2月)の親族集合写真が見つかりました。
戦後の混乱期で物不足の時代、極近い親戚が集まった中に、きみが写っていました。
オフクロ(芳子)の親戚として、河崎きみが参列するほど親しかったのです。
さて、小林又一は政界を去った後は、昔の人脈を頼って色んな事業に手を出したようですが、なかなか成功はしなかったようです。
最後に、シアトルで缶詰工場を経営するため渡航しようとした直前に、太平洋戦争が勃発し(昭和16年)、断念しました。これが、小林又一の波乱万丈の人生でした。
我が家には、変な家訓があります。
「道楽の中で一番の道楽が、政治だ。後世、政治には手を出さないように」というものです。
又一の頃の政治は「待合い政治」とまで言われ、金権政治、贈収賄、汚職の巣窟のような時代だったのでしょう。それに翻弄されるような政治には手を出すなと遺言したのでしょう。
こんな遺言を守る必要なんかさらさら無いのですが、幸い親戚に政治家は出ず、遺言は反故となりました。