日本語の奥底にある日本文化

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自論「日本文化は、日本語の中にある」と思って、そこで平田オリザ氏お奨めの「ことばと文化(岩波新書) 新書 鈴木孝夫 著 を読んでみました。この本は1973年初版で既に42刷を数えています。古いが重版ものです。言語学は初めてだったので面白かった。

冒頭に紹介されている「二つの文化の食事」は、思い当たることがあります。
フランス圏に育った姪と一緒に、自宅で食事した時のことだった。
食卓では「ごはんは左」「箸の向きは…」と教えたんです。ところが、いざ食べ始めて気がついたんです。食べ方がなんか変?
白飯だけムシャムシャ食べ終わったあと、味噌汁だけ飲んでしまいます。次はおかずだけ食べ、次々と食べ片付けていくのです。
どうしてそんな食べ方をするの?と聞いても、「これ普通」と言います。食事の仕方に「これ文化が違う」と気が付いたのです。

日本的なことに気がつかない処に、日本独特の文化があります。
外国語を学ぶ価値は、かくれた文化、目に見えない文化、明示的ではない文化を、理解するためなのかも知れません。

ちょっと難しいですが、鈴木孝夫氏は次のようにいっています。

日本語を、そして日本的現実をはかる尺度は、日本語それ自体
日本的現実それ自体に求められるべきだと思う。もし西欧起源の尺度と対比させ、普遍化を目ざすならば、それは両者を共に含み、共に説明できる一段高い次元に於いてのみ可能であって、西欧の尺度を流用しての安易な普遍化が可能である筈はないと思っている。

即ち、日本文化は日本語でないと解らないヨと言ってます。

例えば、自分を指す自称詞と、相手を指す対称詞について…
「日本語では自分と相手を言うことばは、西欧語などの場合と異なり、想像以上に複雑である。しかしそこには一貫した原則が見られ、しかもそれは、家族間の自称詞、対称詞のパタンが基本的なもの」だと言っています。

「ことばと文化」p.148掲載の図
「ことばと文化」p.148掲載の図より

わかりやすく言えば
40才の小学校の先生をモデルにすると、右図のようになります。

自分のことを「私」「ぼく」「おじさん」と言い。
相手のことを「先生」「お父さん」「おまえ」などと様々な言い方に変化しています。

西欧語なら自分のことを “I” とか “ich” です。相手には”You”とか “Sie” “du” です。簡単です。こういった複雑な関係を、自然に使っているのが日本語なのです。

言語学者とは、面白いことを考えるものだと、新鮮に感じた。
日本語のなかでは、上下関係、家族関係、その虚構的応用など、役割が規定された中で、人称代名詞を用いているとのことだ。

西欧語(インド・ヨーロッパ系言語)とまったく違う日本語は、「察しの文化」「思いやりの文化」であり、正面から対立する、個と個の間の意見の交換、両者の利害の調節としての言語の機能は極度に押さえられるとのことです。

相手の腹をよみ、相手に気持ちを忖度そんたくすることから、ついには「他人の疝気せんきを気に病む」ところまで落ちていきかねないが、また反対に「相客あいきゃくにこころせよ」という茶道の哲学にまで高まる可能性も含んでいる。

漠然と「日本文化は、日本語の中にある」などと思っていたことに恥じています。機会あれば、もう少し言語学者の論説などに耳を傾けてみたいと思う。

世界でも珍しい「甘えの」精神風土だとか、同質的な文化だと言われた日本文化です。でも、次なる時代は何かを探ってみたい。
対立ではなく、対象同化による、自他の差異を超克する日本文化を見つけ出すことはできないものだろうか?

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