日本語の奥底にある日本文化(その2)

この記事は3年以上前に投稿された古いものです。

鈴木孝夫先生の著作「ことばの文化」を読んで、これまで漠然と「日本文化は、日本語の中にある」などと思っていたことに恥じ、もう少し先生の最近の著書「日本の感性が世界を変える」を読んでみました。

先生は、大正15年生まれですから 今年90才になられる。慶應義塾の名誉教授で、日本野鳥の会の顧問もされ、日本の言語学者として今も活躍されています。
今や世界は大きく変わってしまったと、先生はとなえます。それは人類の恐るべき大増殖に寄るんだと…

紀元零年頃は推定2億人18世紀 に30億から60億、現在では70億となり今世紀末までには100億人となることがほぼ確実視されている。
この地球上には、大型動物で個体数が億どころか百万を超える野生の種は、驚くなかれただの一種も存在しないのです。
(中略)
人間に次いで、繁栄し増殖をつずけている大型動物は、皮肉にも家畜なのです。牛13.5億頭、羊1.8億頭、豚9.1億頭、山羊8.3億頭です。人類がこのように爆発的に増加してしていることは、地球の全生態系の安定的持続の見地からは、危険この上ないことです。

今や新たなフォンティアはないのです。経済的にも文明的にも、未開発のフロンティアは何処にもありません。
17世紀の大航海時代から続いた、拡大・成長神話について、鈴木先生は以下のように訴えます。

バベルの塔-ブリューゲル
天に届く塔を建設しようとして、崩れてしまったといわれるハベルの塔

資源の大量消費、終わりなき成長の神話、人類によってのみ支配が許される自然環境、こういった傲慢な態度を変えなくてはなりません。
資源も、自然も、食料も有限であり、限度があることは、世界の常識になってきています。
まだ、かろうじて残っている原生林や、珍しい動植物、美しい海中の魚、空を舞う鷹や鷲などが残っている間に、手を打たなければなりません。
未開発のフロンティアは消滅し、僕らは 既に、ハベルの塔であることに気づいたのです。
これから下山の時代に差しかかっています。(趣意引用)

循環型の生活を基本にしなくてはならなくなっています。そこで、江戸時代の再評価をすべきだと、鈴木先生は訴えます。

日本語には不思議な文化があります。タタミゼ(tatamiser)効果、即ち「日本かぶれ」「日本贔屓する」という意味ですが、
外人でも日本に長く暮らし、日本語が話せるようになるとタタミゼ(tatamiser)効果が出てくるらしい。ことばに文化が宿ります。

フランス語は、口説きに力量を発揮し、スペイン語は男の中の男になったように高圧的で独断的になって、俗っぽく快楽的になる。
それに比して、日本語は、こんなにも礼儀正しい人間かと自分でも呆れる。万事控え目で(女性は)男を立てるようになる。

それに、日本語は、聴覚(音声)と視覚(字面じずら)を使うTV型言語だと説明されています。やはり日本語は書き言葉だったのです。

比較言語学では音韻数が、日本語では23、フランス語では36、ドイツ語で39、英語で45 だそうです。即ち、日本語は同音異義語が非常に多く、漢字があるから混乱しないでいるそうです。日本人にとって、漢字は、音声だけでなく、どのような漢字で書かれているのかが、重要です。

その上、漢字の読み方に訓読みというのが有って、これがまた面白いのだそうです。

古来、日本の漢字は一部の知識人が大陸に渡って、外国語(漢字)を修得し、日本人の先生が、日本語で説明しながら日本人に教えた、これが漢字の文化です。
戦後の英語教育も同じで、明治初期、お雇い外国人が比較的多かった一時期を除くと、英語も留学経験者の日本人、又は日本の大学の英文学科で学んだ日本人が、日本人の生徒に英語を教えたのと似ています。(趣意引用)

これで判った。日本人が英語を上手く喋れないのが判った。
古来、ここ極東の僻地、世界では異質の日本文化だったんです。

日本の文化は世界で異質です。ユーラシア型の文明が異質の他者(人間だけでなく動物も含む)と対決し、これを支配隷属させる攻撃的な自己中心的ヴェクトルを本質とするものであるのに対して、日本型の特徴は、そもそも人間がそれと対決して自分の支配下に置き、命令し隷属させることのできる対立者でないがゆえに、結果として動物を含む他者に対する強い対決的な姿勢が生まれにくく、共存共栄の対人関係が育つことになった。(趣意引用)

これが同一概念の二重音声化という、世界でも珍しい現象なのだそうです。そして先生は「単なる地球人ではなく地救人になるべきだ」と訴えるのです。

YouTubeに特別シンポジウム「グローバル人材と日本語」と題する、鈴木先生の講演がありました。
冒頭、先生は「いまTVでやってるのはスポーツとグルメの番組ばかりだ。これは古代ローマのパンとサーカスの時代と同じだ。今の人類社会は危ない。」と…、この辺りからお聞き下さい。

モリパパは、日本の文化に胸を張って、これからも日本語を大切に使おうと思っています。

それにしても、日本文化はどう見ても、仏法の考え方に由来しているように思います。仏法的な考え方、感じ方が、日本文化に強く投影されていると思います。

鈴木先生は仏法にお詳しくないようですが、日本文化の基礎となったのは仏法ではないでしょうか? 日本人の精神的な土壌は、仏法だと思っています。今や日本に仏法を伝えた中国にも、韓国にも仏法はありません。仏法2000年の歴史が今息づいているのは、この日本しか無いと思っているのですが、如何でしょう?

仏法に根ざした精神性について、ふと気付いたように思い出す事がありました。仏法の中で薫育されたものの一つとして、思い出すのは、自他の差異を超克する文化であります。

「一本の矢」は差異へのこだわりだ。その差異へのこだわりは、自分の生命の領域を自分で小さくし、ふさいでしまうことになる。

と講演された、池田SGI会長のハーバード大学での講演「21世紀文明と大乗仏教」を思い出すのであります。

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