日本の弊風

働くことがレーゾンデートルraison d’être(存在理由)の日本人

長時間労働や過労死の原因になっていると言う人がいます。ワーカホリズムとか、ワーク・ライフ・バランスという言葉がある。

朝から晩までずっと仕事をするのは良くない。仕事とプライベートの時間は1日に同じ分だけあるべきだという意見がありますがどんな仕事をされているのかうたぐってしまいます。

1ヶ月の残業は平均35.2時間で、労働者の39.1%が残業をしてその報酬を受け取っている。当たり前でしょう。

モリパパは33才の時に管理職になってしまった。その途端に残業が付かなくなってしまったのです。以来、自分がどの程度残業しているのかも、気にしなくなってしまいました。

現役だった頃、よく夜中に仕事のアイデアが浮かび、飛び起きて、メモを取った経験があります。
已来、未だに寝床の近くにメモを置くのが癖になって、今も夜中にメモを取ることがあります。小説家や芸術家だってこんな具合で働いているのではありませんかね?

日本人にとって働くことには、善悪の尺度なんか無いと思ます。職業に貴賎なしと教えられて、働くことが”生きがい”だと感じてきたことは、幸せなことだと今も思っています。

どんな仕事でも、必死になって働いている姿は美しい。これが日本なのです。これって、日本人の美徳なんでしょうか?弊風なんでしょうか?

制服が似合う日本人は、働くことがよく似合います

工場の作業服、医者の白衣、看護士の制服、飛行機パイロットの制服、警察官の制服、自衛隊の制服これらはどこの国にもあります。

しかし日本ほど制服に征服されている国はありません。また、その制服がよく似合う日本人です。制服が仲間意識を育て、制服が職業的な安心感を与えてくれています。

三田村蕗子は「コスプレ-なぜ日本人は制服が好きなのか」の中で「思考停止のコスプレだ」と言っています。
「コスプレ」に少々説明を加えると、コスチューム・プレイCostume play (和製英語)を略してますが、今ではその服装のキャラになり切ることを「コスプレ」と言ってます。

清楚なOLを印象づける制服、お受験ママになり切るスーツ、又学生が着るリクルート・スーツ、はたまたネクタイを締めた寿司職人まで、そのキャラになり切るのはコスプレだという訳です。

実は日本の制服は、公人(Ofiicial)としての服装でもあるのです。
だから、学生服で、結婚式も葬式も出れれた訳です。
憧れのスチュワーデス(古臭い語彙)でも、日本のJALやANA場合は、シンガポール航空やタイ航空などのように民族衣装を、制服にしたりしません。紺をベースにした端正な制服、公人の服装なのです。

強制されて制服を着用する場合もありますが、自慢できるような職業人は、制服を着用することに抵抗がありません。
もし弁護士、公認会計士などに制服があれば、面白いのですが‥

本当に、制服が好きな国民ですし、またよく似合う日本人です。

どこも仕事場化されて、やかましく、うるさい日本

哲学者:中島義道は「うるさい日本の私の冒頭で「私は病気である」といってますが、ああまで実力行使する彼は狂人です。

確かに日本では、公共施設、電車、銀行、デパート、喫茶店に至るまで、不必要な「案内放送」が繰り返され、リピート放送され鳴り止まないのは確かです。

ヨーロッパに行くと、何と日本がうるさいのかよく分かります。駅で何の案内もなく電車がスウッと出発する。店の前で呼び込みも無い。看板も見落とすほど小さい。
おまけに日曜日の朝、ガァッガァと掃除機かけると近所から苦情が出る。静けさを大事にしていることがよく分かります。

病的なほどにうるさい、お節介せっかいな日本なのであります。中島義道は、「察することを尊び、語ることを封じている」のが、日本文化だと言っています。そこまで展開せずとも、静かさとはなにか、そこにこそ大切なものがあることには賛成であります。

だから忖度文化そんたくぶんかが出てきてしまったのです。それが官公庁に蔓延はびっているようです。かつては美風だったものが今は弊風です。

同質性を慈しむ日本人

日本人には、何処か同質性を感じるところがあります。だから、海外で日本人に出会うと、なんか妙に親近感を持ちます。
最近では、これがあだになることもありますが、国内では先ずない親近感を覚えるものです。

日本人は、どうして思ったことを言葉にできないのでしょうか?「愛してる」って素直に言わないのは、何故でしょうか?
YES/NOをはっきり言わないのはなぜでしょうか?

こういった同質性に、日本人どうしは分かり会えるのです。

引き算の美学 これに徹したショートポエムが俳句

俳句こそ、引き算の美学であります。俳句の世界は、省略することによって育まれる「余白の豊穣な力」なのだそうです。

俳句は、空気を読む日本の曖昧力だそうです。
世の中は、人間だけで廻っている訳でもなく、見えるものが全てではない世界にあります。

近代、資本主義を駆動させてきた理念、それは止めどない自己増殖であり、“周辺”への拡大・侵略でありました。
成長戦略に猛進する経済は、即ち「成長教」という足し算に邁進した現代社会なのであります。
これを終焉させるには、引き算の美学が求められているような気がしますが、いかがでしょう?

いま、下り坂をそろそろと下る時代を迎えようとしています。著者:平田オリザさんが言っているように、

  1. もはや日本は、工業立国ではない。
  2. もはや日本は、成長社会ではない。
  3. もはやこの国は、アジア唯一の先進国ではない。

そろそろと、引き算の美学を学び取らねばならない時代に来ているとは思いませんか?

 

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