雑草学

この記事は3年以上前に投稿された古いものです。

雑草学?とは面白い。農学部の学生だった頃、こんな研究・学問を聞いたことがない。 以下の記事をみて、更に興味深く感じた。

公明新聞 2016.4.8掲載のコラム”すなどけい”
公明新聞 2016.4.8掲載のコラム”すなどけい”より

早速、雑草学を検索してみると、日本雑草学会なるものまであって、どうもちゃんとした研究・学問でした。
稲垣栄洋氏のコラムに、興味を引いたのは以下のところです。

だれも世話をしてくれない雑草は、芽を出すタイミングを自分で決めるのです。やっと芽を出したと思っても、そろって芽を出すことはありません。ゆっくり芽を出してくるのんびり屋がたくさんいて、だらだらと発生してきます。一斉に芽を出すと、何かあったときに全滅してしまいます。
そのため、雑草は揃わないようにしているのです。このように、バラバラであることが、雑草の強さの秘密です。
(中略)
教育はどうでしょうか。子供たちはときに他人と同じであることが求められます。もしかするとそれは、管理するための都合なのかもしれません。

教育ばかりではありません。管理するための都合で、均一であり、画一であることが求められることは、意外に多いのです。
特に、この日本では、個性やオリジナリティーより、均一、画一な協調性が重視されています。でもそのことに余り気付かないし、違和感をもたないのが、日本人なのです。
逆に、皆と一緒でいることが安心感を与えてくれているのです。均一、画一であることが受け入れやすい国民性のようです。
日本の流行も、皆と同じだといった安心感を与えるものです。そして髪の色も眼の色も同じで、制服がよく似合う国民なのです。

欧米、特にフランスでは、個性やオリジナリティーが重視されます。個性がないことは人格を否定されているような気がするらしいのです。管理されることに不自由を感じ、均一で、画一であることに苦手な人達が多いのです。
かなり我が儘な人がたくさんいます。そして、絶対に自分の意見を曲げない。間違ったことが発覚しても、それでも簡単に意見を曲げない。もしくは、さっき言ってたことと180度逆な主張をし始める。頭が混乱してくる?といった具合です。

最近、フランス圏で教育を受けてきた姪が日本語に馴れてきて、こんな話まで出来るようになりました。そして、余りにも大きな考え方の違いに、はたと気がつくことが多くなった次第です。

桜梅桃李どころかバラバラであることが雑草の強さだそうです。日本が、更に国際化するということ、世界広布新時代とは「誰も世話をしてくれない雑草のような強さ」が必要になるということでしょうか。

 


その後の寄稿も面白いので、参考として追記します。

moripapaブログの関連投稿です