防災の日によせて

この記事は3年以上前に投稿された古いものです。

今日、防災の日を迎えた。毎年のことながら何もしないで「そういった日もあってもいいかもね」と思ってやり過ごしています。

今日の公明新聞のコラム「座標軸」は良い記事だった。

よく勉強してます。こうでなければ読者を惹きつけることはできません。

昨日、同新聞の社説防災の日で訴えた、「根付かせたい自助・共助の文化」は、どうも役人が居丈高に物言を言ってるようなところがあって、読んでて気分を害した。実は、同じようなことを、NHKニュースでも言っていた。

もともと、自助だの共助だの上から目線での物の言い方が好きではありません。公的な国家が自力で自国の権利を確保すること。自力救済を自助というのは分かる。しかし、一個人に自助を求め押し付けるような気質が気に食いません。

共助も行政機関の間で、その職務の遂行に必要な協力や補助を、相互におこなうことなら理解できます。
それを一個人に共助を求めるなど筋が違うと思うのです。そんなところに上から目線を感じるのです。

誰に言われなくても、災害に見舞われたとき、大変なときは、誰もが「お互い様」といって助け合うのが自然です。また当たり前のことで、昔から日本にあった気風だと思っています。

それを、大災害の時代を生き抜く鍵は、防災・減災を社会の主流に押し上げ、ついには文化にまで高めるといった視点が大事だと事改めて言われたくないのであります。

公助すなわち、公的機関による援助と自助、共助を並列して観ないで欲しいのであります。
個人の権利、一人を大切にすることが、公的機関の義務ではないでしょうか?公(おおやけ)は個人の下僕であるべきですから…

確かに最近、温暖化のゆえでしょうか?災害の頻度も大きさも激しくなってきています。先日の九州北部での豪雨を見ても、災害が昔より激甚になったように思えます。

コラム「座標軸」に言う通り、人為的であるからこそ防災は可能との思いを抱かなくてはいけないようであります。

昨日、野鳥公園でボランティアのメンバーと一緒に昼食し、話が地震災害に及んだ。阪神淡路大震災や東京では3.11の東日本大震災について話題になった。

今日は「防災の日」いい機会だから、身の回りの防災について、少し考えてみようかと思います。

 

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