満州事変、戦争の時代へ

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民主主義の目的はなにか?それは”平和”です。
人権、法治、自由、平等も目的の一つですが、”平和”こそ民主主義の譲れない目的だと思うのです。

薩長支配の明治時代を終え、普選活動を経て普通選挙法を制定、とうとう原敬内閣に、政党政治の実現を見ることができました。

原敬に続き、浜口雄幸も凶弾に倒れ、浜口が亡くなって3週間後に満州事変が勃発しました。その後、5・15事件で犬養毅も暗殺され、以後暗い戦争の時代へと落ち込んでしまいました。

民主主義(政党政治)の壮絶な歴史を刻んだに拘わらず、なぜこうも易々と民主主義の萌芽が摘み取られてしまったのか。
ここに満州事変は、戦争の歴史を考える上で、特別な意味があります。政党政治へ引き戻す方法は無かったのでしょうか?

  • なぜ、満州事変に先立つ張作霖暗殺のときに、関東軍の謀略を暴き糾弾できなかったのか?
  • なぜ、柳条湖事件が、自作自演の謀略であったと暴き、関東軍の満州占領計画を明確にさせなかったのか?
  • なぜ、朝鮮軍(日本朝鮮総督府)の裁可なき国外出兵を追認し、関東軍の増派・予算を認めてしまったのか?
  • なぜ、関東軍が現地で政治介入する謀略を掴みながら、政府は越権行為として批判し厳しい対抗措置を取らなかったのか?
  • なぜ、関東軍の錦州爆撃と越境を放置し、国際的重大な違反を許すことになってしまったのか?
  • 未遂に終わった桜会クーデターの10月事件を、関東軍独立の野心を潰す機会にせず、これを軍にゆだね放置したのか?
  • なぜ、溥儀(満州執政)をかついで満州国建国を画策した関東軍の独断専行に、政府は断固として異を唱えなかったのか?
  • なぜ、関東軍の熱河省への国境超えを、許してしまったのか?政府は強力に非難しなかったのか?
  • なぜ、最後まで優柔不断な外交戦術を取れるはずだったにも拘らず、国際連盟を脱退を日本から宣言したのか?

関東軍は自作自演、挑発行動を繰り返しながら、本来は外交問題であるところを軍事行動(クーデター)に出たのが満州事変です。
政府・軍中央の「事変不拡大」を骨抜きにし、傀儡政権「満州国独立」を目指したのです。

政党政治の意志「事変の不拡大」は封じ込まれ、政府は国際連盟の不戦条約違反の矢面に立ってしまった。
そして情報公開されることはなく、昭和初期のジャーナリズムは暴力、脅喝、恫喝に屈してしまいました。
更に、政友会の内田康哉やすやつとむなど、関東軍を支持するところとなってしまった。

10月事件の桜会によるクーデター計画も未遂だったし、5・15事件、2・26事件も国家転覆には至らなかった。
なぜ満州事変は、歯止めが効かなかったのか?それは政府も軍中央部もシビリアン・コントロールを失ったからです。
浜口雄幸の如く強力なリーダーシップの人物が居たら展開は変わっていたに違いありません。

大正デモクラシーの政党政治について、内実は脆弱なものとの批判があったが、近年の研究でその体制は強固なもので、内外関係を含めて相当の安定性を持っていたと言われています。
しかし、満州事変に振り廻され、事後追認し、戦争の道を防げなかった。その理由は、後継の人材群の違いだったと言えます。

双葉会、一夕会など軍部の一部の壮少幹部によって軍中央が掌握され、猶存社の大川周明、北一輝などの満州独立思想にも影響され、関東軍を実質指揮した板垣征四郎、石原莞爾など人材群が揃ったことが、満州事変をかくも突き動かした理由でもあります。

一つ胸に刺さったままの疑問があります。それは永田鉄山、板垣征四郎、石原莞爾など実に優秀な人材だった。それが何故、満州国を建設し、アジアの覇権を夢見て、いずれは米国との戦いまで想定しながら戦争への道を指揮したのか?という疑問です。

それは自国のことしか考えなかった思想なのです。自分しか考えない、他者のことを案ずることはない思想だったのです。
企業人で言えば自社しか考えない。政治で言えば自らの党派しか考えない。対立するものを理解できなかったからに他なりません。

他人の不幸の上に自分の幸福を築くことをしない。共生、共存の寛容な精神が失われた思想に、戦争の悲惨が待ち受けていました。

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