核兵器廃絶だけは譲れません

この記事は3年以上前に投稿された古いものです。

NHKスペシャル「決断なき原爆投下~米大統領71年目の真実~」(2016年8月6日)が放映された。
トルーマンが「原爆投下は戦争を早く終わらせ、数百万の米兵の命を救うため」と弁明し、原爆は“意義ある作戦だった”として今も、多くのアメリカ人が信じ、正当性している。

300px-atomic_cloud_over_hiroshima
広島の原爆

原爆投下後71年目にして語られる真実に、手に負えないノーテンキなアメリカ Robust Puerileローバスト・プリュリル (タフな児童)を見るような気がした。子供じみたカーボーイのように、単純な国民性に呆れてしまう。

原爆投下は「必要悪」だったと未だに言うアメリカに耳を疑います。
敗戦の悲惨さ、国家的な犯罪経験を持つ日本とドイツでは、こんな発想は産まれません。

原爆は「絶対悪」であることを未だに認めないアメリカ。どんなに経済規模が大きくてもアメリカみたいな国にはなりたくない。
銃規制、即ち刀狩りさえできず、国民皆保険でさえできない国なのです。まして核兵器廃絶運動ができる訳がない。

広島でのオバマ
広島でのオバマ

9月7日「オバマ大統領 核兵器の「先制不使用」宣言断念か」というニュースが流れた。まことに残念!残念であります。

相手方の核攻撃に対する反撃の場合を除き、核兵器を使用しないという先制不使用は、1980年代マクナマラ元米国務長官やゴルバチョフ元ソ連書記長らが提唱してきました。あの中国でさえ、先制不使用を宣言しているのです。

norway_sympo一昨日 (2016.9.5)ノールウェー・ベルゲンで開催された「核廃絶に向けたシンポジウム」に、池田SGI会長がメッセージを寄せた。
その中に、こうありました。

核兵器の非人道性の核心は、その圧倒的な破壊力だけにあるのではありません。幸福な人生を歩むためにどれだけの人間が努力を重ねようと、長い時間と労力をかけて文化と歴史を育もうと、その一切を一瞬にして無意味なものにしてしまう。
この言語に絶する”理不尽さ”にある。

今、まさに大きな歴史上の転換期にあって、この地球上に核兵器に無縁でいられる場所など何処にもありません。

アメリカ、ロシアを一歩でも二歩でも、核兵器廃絶に向けてキャンペーンを絶やさないことが大切だと思います。

戦後、まるでアメリカの衛星国のようなってしまった日本ですが、核兵器廃絶に対しては堂々と主張できます。
手に負えないアメリカ、 Robust Puerileローバスト・プリュリル (タフな児童)と言わる国民性が、間違った方向に向かわないよう、核兵器廃絶だけは譲れません。

moripapaブログの関連投稿です