大正デモクラシーから戦争の時代へ

ポーツマス講和会議

日露戦争の戦後処理であるポーツマス条約により、旅順-長春の南満洲支線と付属地(炭鉱)、更に関東州の租借権を、日本は獲得しました。その鉄道守備隊が後に関東軍となりました。

1928(s.3)年6.4、関東軍は張作霖が乗る列車を秘密裏に爆破し、殺害しました。この張作霖爆殺事件も軍部が画策したものです。その3年後、満州事変が勃発します

満州事変は、1931(s.6)9月18日pm10:20柳条湖付近で満鉄路線が爆破された事に始まります。そして、浜口内閣を継いだ若槻内閣が総辞職する12月13日までの86日間を指して謂います。

永田鉄山

満州事変は一般に関東軍独断によるものと見られていますが、実際は、一夕会の周到な計画によって実行されたものなのです。

その中心人物こそ永田鉄山軍事課長です。直接の事件立案者は関東軍の石橋莞爾主任参謀、板垣征四郎高給参謀ですが、永田以下の一夕会が陸軍中央の主要部局を押さえ、周到な準備の下で起こしたものだったのです。

柳条湖の鉄道爆破は「暴戻ぼうれいなる支那軍隊が満鉄線を破壊」と報告され、中国軍の仕業(テロ)とされました。
しかし事実は関東軍の謀略によるもので、中国軍は張学良の指示で、積極的な交戦は避けていました。しかし、関東軍は計画した通り、速やかに北満進出・侵略を重ねたのであります。

実は、永田が当初構想していたタイミングより早く事件が起きてしまったのですが、企図された通リことを運こんでゆきます。

若槻内閣は、満州事変が勃発した当初より、これを拡大させてはならない。不拡散の方針で挑み、南陸相、金谷参謀総長に対し、当初関東軍の勝手な進軍を許さぬよう命令するのですが、次第に事後承認へと、引きずり込まれていきます。

陸軍中央部の主要ポストは一夕会で占められていた

一夕会の中心者である永田鉄山は、陸軍中央にあって、用意周到に進めてゆきます。

機宜(臨機応変)の措置が必要な出先の軍、即ち関東軍では帝国自衛権の発動のため、満蒙に独立新政権樹立が必要だと、動きだしていたのです。

朝鮮にあった日本軍は、満州へ越境し、関東軍は北進し、チチハルに達します。一方で更に、錦州事件を引き起こすに至るのです。

陸軍中央で、永田は満州事変を正当化させ、経費の裏付けさえ得るよう暗躍します。

朝鮮軍部の満州派遣の追認を求めるため、南陸相と金谷参謀総長を動かし、天皇の裁可を取り、事後承認に成功します。

陸相らを引きずり、若槻内閣さえ引きずり込んでゆきます。
実は、関東軍など出先の軍司令官は、天皇に直属として、陸相、参謀総長といえども命令権限がなかったのです。それでも臨時参謀総長委任命令を発動し、関東軍の動きを抑止しようとしたのですが、制御できませんでした。

若槻禮次郎

そして終に、若槻内閣は制御不能に陥ります。解散しか方途が無くなってしまい、解散し後継の犬養毅へ内閣を譲ります。
犬養内閣の組閣では、南陸相、金谷参謀総長も辞職し、一夕会が擁立する荒木貞夫が陸相に就任することとなります。

関東軍の石原や永田らの一夕会が企図していた、北満・錦州を含めた日本の実権掌握の下、独立国家樹立が一挙に実現してしまいます。こうして満州事変は、関東軍と陸軍中央の一夕会の中堅幕僚グループの連携による策略に、陥るのであります。

犬養毅

その後、1932(s.7)年5月15日、海軍将校と陸士候補生に襲われ、犬飼首相は殺害されます。5・15事件です。その後継首班に、海軍出身の斉藤実が奏薦され、この斉藤内閣の成立をもって政党政治の時代は終焉することとなったのです。1932(s.7)年9月15日、満州国を正式に承認します。

その後の日本は、政治的な制御もなくなり、国際連盟脱退、2・26事件、日中戦争、更に太平洋戦争へと軍国主義日本へと突入して行ってしまうのです。

moripapaブログの関連投稿です