昭和初期のジャーナリズム

満州事変の前夜はどんな時代だったのでしょう? 世界恐慌の煽りを受けて、昭和金融恐慌が始まり、不景気の真っ只中にあったのです。銀行での取り付け騒ぎ、鈴木商店など大企業倒産も続出。

1927年(S2)の銀行前の取り付け騒ぎ

一般のサラリーマンは就職難で大学を出ても就職先がない時代でした。
特に農村の状況は悲惨だった。生糸価格の下落、農産物も下落し、コメの豊作貧乏、とうとう東北地方では娘の身売りや欠食児童が問題となっていました。デパートは干上がり”十銭均一”まで実施して、息をつく始末だったのです。

こんな世相の中で浜口雄幸は内閣の舵取りをしていたのです。金解禁と緊縮財政の実施、これに続くロンドン海軍縮条約条約の批准など、国会では大乱闘が起こる始末で、時代は大きな曲がり角に来ていました。

満州事変が勃発[1931年(S.6)9月]当時は、大きな黒い渦の中に巻き込まれてしまったような、暗い時代だったのです。そして…

五・一五事件を伝える大阪朝日新聞

1932年(S.7)財界にも慄然とした事件が起きます。日銀総裁だった井上準之助が襲われ、三井の団琢磨が狙撃されます。そして5・15事件が起き、犬養毅首相が射殺され、政財界ともに血生臭く、すさんだ時代でした。

軍部は、軍刀をガチャガチャさせてジャーナリズムへの言論統制を強化する一方で、陸軍パンを多量にバラマキ、「満蒙は日本の生命線」「国家の非常時」「挙国一致」を煽っていきます。

これらは、周到に準備された軍部の陰謀でした。しかも見ごとに成功し、大衆を熱狂させていきます。ジャーナリストより一枚上の戦略だったという他ありません。
これらの戦略が永田鉄山の戦略的構想にどこまで入っていたのか分かりませんが、互いに牽制し、結局は経営にこだわった新聞ジャーナリズムを、完全に敗北させることに成功しています。

ポピュリズム即ち、付和雷同は、日本の国民性によりました。
当時、満州国独立論を唱える小磯国昭軍務局長は、ある集まりで「いや、日本人は戦争が好きだから、事前に理屈を並べても火ぶたを切ってしまえば、あとはついてくるよ」と言ったそうです。日本の国民性をよくみた意見で、同調者も多かったようです。

第一次世界大戦の戦後視察をした政財界の人は多かった。欧州の戦後をどう見たか?
新渡戸稲造も永田鉄山も戦後視察に行っています。政治家は絶対平和を誓い、軍人は国家総力戦を画策しました。
昭和初期は「戦前日本のポピュリズムで書かれている通り、日本が初めて経験したポピュリズムでした。
それが、悲惨な戦争への時代へ巻き込んでいったのです。民主化(民主主義)とポピュリズムは、表裏一体なのです。

”兵は凶器なり”の著者:前坂俊之

前坂俊之は「民主主義の根本は情報の公開です」と言っています。

昭和初期のジャーナリズムの歴史は、今日100年を経て、包み隠さず公開されています。
この凄まじい恥ずべき日本の歴史を顧みて、二度と繰り返してはならないと思います。

現代の今は、情報はジャーナリストだけが占有するものではなくなりました。
誰でも意見が言えるし、個人で意見を書けますし、公に発信もできます。インターネットによって新しい時代がやってきました。

しかし、人は所詮身勝手なものです。自分に不利益なことに目をつぶって、興味本位でしか物事を見ないのは、今も昔も変わっていません。70年以上続いた平和をどう次世代に贈り残すか?
新しい時代にどう責任を持つか? 祈りと願いを込めてここで一旦筆を置きます。

拙文をここまで読んで頂き有難うございました。

 

 

 

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