満州事変以降、新聞の論調は一変してしまいました。その極端だったのが、朝日新聞(大阪朝日本社)でありました。
柳条湖事件が勃発したとき、朝日新聞は特派員を現地に派遣していたけど、あれはこっちが仕掛けたとは知らなかった。
『全責任は支那にある』と朝日新聞も憤慨した。
ただし、その時はまだ『局地的に解決せよ』と、事変の不拡大、早期収拾を主張していたのです。(「兵は凶器なり」 より)
ところがその後、満州事変への論説が一変してしまいます。その内幕を記したマル秘の内部文書が発見され公開されました。その内部文書は長文なので割愛しますが、大阪朝日本社と東京朝日は軍部追随する方針を決めたのです。
当時、朝日の主筆だった高原操は「船乗りには『潮待ち』という言葉がある。遺憾ながら我々もしばらくの間、潮待ちをする」と言ったそうです。(「兵は凶器なり」 より)
言論統制は、明治政府誕生の昔に遡ります。それは常に治安維持法とセットで施行されてきました。昭和に入って、普通選挙法(1925年T.14)と抱合せで、治安維持法も改定(改悪)されます。
満州事変[1931年(S.6)]が起きて、言論統制が、一挙に強化されます。1932年(S.6)には新聞の差止め件数が6倍になり64件にもなりました。
満州事変の勃発当時、朝日は満州16ヶ所に、43人も特派員を貼りつけ、連日号外が発行されました。報道だけではありません、更に慰問金の募集や特派員の事変報告演説会も開催しました。
大々的に報道し、既成事実を追認し、軍の行動を容認しました。「満蒙の正しき知識」などという小冊子(非売品)まで発行しました。一般民衆は、まだ満蒙への認識は殆ど無い時代だったのです。
新聞が軍部と一体となって「満蒙生命線論」のキャンペーンを繰り広げた結果、満蒙の認識は広まり、出征の軍隊を鼓舞し、愛国心、排外熱を煽り、燃え上がらせたのが新聞だったのです。
軍部は着々と既成事実を作り、新聞は世論を煽り、軍部に阿りながら二人三脚で進み、慎重論を唱えていた政府も既成事実の追認に追われ、ニッチモサッチモいかなくなる構図をたどりました。
極端な排外主義、熱烈な殉国精神、大和魂の高揚は、軍国主義、全体主義への大きなうねりとなり、自らの首を締め付ける結果を産みました。時流に便乗し国民を煽った大センセーションのツケの大きさに新聞さえ気が付かなかったのです。
満州事変を徹底的に調査したリットン調査団が来日したのは1932年でした。
約3ヶ月の調査を終え、リットン調査団が帰途に付くのを待っていたかのように
満州皇帝に”溥儀”を執政にし、満州を中国から分離させようとしました。関東軍は満州国承認を政府(斉藤内閣)に迫り、衆院で可決させます。
このとき内田外相は「満蒙事件というものは、我が帝国にとっては所謂自衛権の発動に基づくものであって、この問題のためには挙国一致、国を焦土にしても、この主張に徹することにおいては一歩も譲らないという決心持っている」言い放っているのです。所謂、焦土発言です。
その後、国際連盟脱退のときも、5・15事件のときも、京大・滝川事件のときも、新渡戸稲造の舌禍事件でも、非常時の難局を乗り切るためと言い、ジャーナリズムは軍部への恐怖から”自己規制”を敷いていたのです。
軍部は、ジャーナリズムを巻き込む一方で、プロパガンダを周到に準備してゆきました。俗に言う陸軍パンです。
「たたかいは創造の父、文化の母である」から始まる陸軍パンフレット(国防の本義と其強化の提唱)を多量に発行します。
満州事変の始まった1931年(S.6)に18種60万部。その後も次々に発行され、1932年37種、1933年33種でした。
ナチスでのプロパガンダは有名ですが、この日本の昭和初期も同じようにプロパガンダが利用されていました。
軍部は「国家総力戦体制」へ周到な準備を進め、永田鉄山の率いる人脈=統制派が主導権を握った軍部となっていきました。