考古学が好きでもないし、興味もなかったが
司馬遼太郎の「オホーツク街道」を読んで、すこし興味を持ち、モヨロ貝塚を訪ねた。
正確に言うとモヨロ貝塚館とその近傍です。新しい貝塚館を見て、実は驚いてしまった。
考古学って古臭く、学問臭いと思っていた。でも、ここでは観光の一つになっている。館内は清潔できれいだ。そしてエレベータまでも完備されていた。
このモヨロ館を、モヨロ貝塚の発見者である米村喜男衛 当人が見たとしたら、さぞやビックリするだろう。
彼はもとは散髪屋である。いまや日本のシュリーマンとまでもてはやされては、さすがに気恥ずかしく思うことだろう。
実は、モヨロ・ビーナスがどこにあるのか館内を探して回った。
オホーツク文化を象徴する遺物として知られている牙製の婦人像である。高さわずか数センチの小さなものだ。
頭部が有れば、もっと値打ちがあって、面白い発想ができたと思うが、残念だ。
オホーツク人は北方から来た人種で、アイヌとは全く違うらしい。
背丈は高く、すね毛が無い人種だそうだ。色白だったのじゃないかと勝手に思う
今から1,300年前で、文字を持たなかったから詳しく分からない。だが、瓶は胃袋の道具だそうだが、この埋葬方法をみるとそれ以上に意味があったと思う。
1,300年前といえば本土では、飛鳥、奈良時代に当たる。本土では稲作が定着したが、寒冷な北海道では稲作ができなかった。
トドなど怪獣を獲っていたのだろう。
肉食で生肉も食べていたのだろう、衣服として毛皮は暖かく、半地下の住居も暖かかった。
雪上を橇で移動すれば行動半径は広い。冬になれば川や沼は凍り、移動は容易くなる。シベリアから樺太を経由して北海道に渡ったはずだ。流氷だってシベリアから来ているほどだから。
ここでは縄文、続縄文、擦文、そしてモヨロと同じオホーツク文化の遺跡が一同に集まっている。
北海道・北東北の縄文文化がユネスコ世界遺産として登録されて以来、この時代に関心が寄せられてきた。
北海道では、縄文時代は長く、寒冷地で稲作ができなかったこともあり弥生時代がなかった。特にオホーツク文化は本土の飛鳥・奈良時代まで続いた。
そこに人々がいたことは確かでどんな暮らしがあったのか?
今と同じように喜怒哀楽があったことでしょう。
一寸、ミステリーに想いをはせてみることがでる。そう素人なりに勝手に想像するのは自由だから、そんな観光も悪くない。