地元恵庭市の「西島松5遺跡」から発掘された出土品が、重要文化財に指定された。ローカルながら話題を呼んでいる。
先日(12/7)、西島松5遺跡の意義と背景の講演を聞きにいった。
北海道で刀剣が出土するのは、江別や余市の遺跡にもあるだそうだが、西島松5遺跡のように、30振りもの刀剣が出土するのは珍しいとのこと。
西島松5遺跡出土品の刀剣は錆てるが、専門家の解説では、柄に鮫の皮が巻かれたものだそうだ。
この点、正倉院の黒作大刀に似たものであるらしい。
正倉院に現存する黒作大刀(正倉院中倉8黒作大刀第13号)は、出土の朽ち錆びた刀剣を「昔を今に見る」ようなもの。
この宝剣が西島松5遺跡から30本も出土したことで、重要文化財に指定された。
7世紀頃の北海道(蝦夷)では、鉄製の刀剣はまだ作れなかった。出土した直刀は、実用的な武器ではなく本州の朝廷から下賜されたものに相違ない。
日本の7世紀といえば、倭国から天皇の飛鳥時代に差しかかる頃の時代だ。
日本書紀で天智天皇が大化の改新(645年)を断行し、古代天皇制を確立した頃のことだ。
版図という言葉がある。欧米では戦闘や略奪によって領土を線引する考え方であったが、古来中国には領土という概念はなく版図という考え方に基づいていた。いわゆる版図拡大である。
中国へ貢物を持っていけば、その貢物以上のものを下賜することによって上下関係が生まれる。戦闘や略奪によって領土を線引するのではない。線引がない版図といった関係で主従が決まった。
こうした版図の考え方は古代日本にもあった。蝦夷の国から貢物を持っていく、そうしたら貢物以上の返礼を下賜する。
朝廷から賜った刀剣が、その国を治める象徴となる時代である。西島松で出土した刀剣がそれに当たるだろう。
恵庭郷土資料館では、出土品展が行われた。
蝦狄か渡島蝦夷か粛慎か分からないが、日本の朝廷との関係を結び版図拡大したに違いない。
まだ石器や擦文土器を使う生活だ。ここに鉄の刀剣が入ってきた。歴然とした文化の違いに驚嘆したに違いない。
それも30本もの刀剣が出土し、古銭まで出てきた。この西島松の勢力が、北海道の全域に及ぶ版図を持っていたと言うから面白い。何か文字を残してくれれば北海道古代史も盛り上がるのに。古代蝦夷に文字がなく記録がないのが残念だが、会話言語はあっただろう。また大和朝廷との間に意思疎通ができたはずだ。
古代、擦文時代から、ヒエやアワを栽培し農耕していたようだ。本州の近畿までどのように往来したのか?記録が全く無いので、勝手に想像するばかりで、古代の恵庭を想うばかりだ。
西島松は自宅近くにある。今は雪捨て場になっている。
ここに古代、人が暮らしてたらしいと想うと何か楽しくなる。
沈黙の古代北海道でなく、賑やかな歓声が聞こえて来るようだ。