悪とどう戦うか

この記事は3年以上前に投稿された古いものです。

まず悪を見破らなくてはならない。司馬遼太郎はこう言っている。

愚かで、慢心が強く、悪徳に満ちている。我欲で、基本は自己中心そのものである。
人を籠絡ろうらくすること巧みであり、その人格たるや、会社・組織を私物化する毒物そのものである。
事実について、きわめて鈍感であり、別の表現で言えば豪胆になる。
その無能を隠ぺいするために自ら風紀係りになったようにやかましく言う、そして社交の友を欲し自分におべっかするものを偏愛し愚者のサロンを作るのである。
自分の勢力をいかに増やすか、自分の人気をいかに保つか、そんなことしか考えない人間が、リーダーになったら組織はつぶれてしまう。(司馬遼太郎「坂の上の雲」より)

悪ははっきり見えない形で、紛然と、まぎらわしくやって来るのです。民主主義の衣に隠れてやって来ます。

最近、扇情的な言葉でブログが炎上したり、論理より自らに都合の良い情報で人を煽っている。情報優先の「大衆の感情化」が進んでますが、誰も考えていない。まるで考えるのを諦めている。

ポピュリズムやファシズムはまぎらわしい情況で生まれ、人びとが思いもよらなかった間違った方向へ押し流していきます。

民主主義の根幹となるものは、ある意味で論壇を作るほどの言葉では無いかと思います。その基本は思考する書き言葉です。
今、SNSでは知識より情報に偏ってしまって、話し言葉が主流になってしまった。そして誰も考えなくなったのです。

これが悪魔となり魔性となって、現実化するのです。
すべてが破滅される極めて危険な世界に、いま私たちは居ることを忘れてはなりません。それは、核のある世界は、1930年代とは全く異なることを!

Donald Trump(米)とBoris Johnson(英)

我々は、過去の歴史から学んで来た筈です。ところがトランプ政権が生まれ、
イギリスはEUに反旗を翻し、EUはアラブ諸国からの難民に自らを守りきれないとヒステリックになっています。

良識をわきまえた人びとが口をつぐんでしまえば、この傾向はみません。今こそ対話が必要です。対話からの民主主義がいま必要になってきています。

ブログでなくて対話が重要です。そして強いて対話に挑むしかありません。「対話とは何か」などと難しいことを言う必要はありません。とにかく選挙でもなんでも構いません、強いて対話することです。そして考えることを止めないことです。

岡野加穂留おかの かおる氏の平和社会のための政治学メモを想起させます。

民主政治、市民社会とは、異なる価値観、異なるコンテクスト(文脈・脈絡)の共有を穏やかに行っていく社会である。
どちらがどちらに強制するのでもない。時間をかけて粘り強く、ゆっくりと新しい価値観を創造していくのだ。そこでは、対話の技術が不可欠である。ギリシャで生まれた「演劇」あるいは「哲学」は、この「対話」の訓練であり、シミュレーションにほかならないのだ。

…と、ギリシャの演劇と哲学を支えたのが、対話 だそうです。

先日(2017.3.27)、ブラジルのアクレ連邦大学Universidade Federal do Acreから池田大作先生に「名誉博士号」が贈られ、そのときの謝辞に池田先生は、このような一文を贈った。

「すべての悪の脅威に打ち勝つものは、『対話』による相互理解と連帯の力である」と。
残念ながら、今、世界は至るところで「分断」の亀裂を深め、暴力の噴出に直面しております。
なればこそ、私たちは、いよいよ「対話の文化」を基軸とし、世界の大学の交流を広げ、人間性の勝利を打ち立てていきたいと思うのであります。
その決心を、私は、素晴らしき貴アクレ州の州歌の一節に託し、ささげます。
 「我々は、変わらぬ力で再び戦うのだ。
 屈せず、倒れず、恐れず!

リーダーは、人びとに対し指導的な立場にあって、人びと(愚かな民衆)を導く立場にあると、履き違えた考えの者がいます。

リーダーはなんのためにあるのか?リーダーを支える人びとに、奉仕するためにある筈です。これが分からなくなったらその人は、自ら魔性に取り憑かれたことを自認しなくてはなりません。

悪のリーダーを見下し、屈せず、倒れず、恐れず闘いましょう。
悪は至る所(世界)にいます。どの組織にもいます。見破り、自ら考えないと分かりません。

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