ハンナ・アーレント

「全体主義の起源」「人間の条件」で知られる政治哲学者のハンナ・アーレント(1906~75)が、2012年映画化され、日本でも注目を集めた。ぜひ一度視聴してもらいたい映画です。

映画ハンナ・アーレント
映画ハンナ・アーレント

この映画はアイヒマン論争と思考する女性(ハンナ)を描いたものですが
難解な彼女の論文を読み解くより、映画が多くの人を感銘させました。

1933~44年の間に、ヨーロッパからアメリカへ知識人の大移動があった。それはアメリカの学問や文化をきわめて豊饒ほうじょうにしたけど、ヨーロッパにとって回復に数十年かかるほどの知的大損害でした。
それは、ナチスのユダヤ人の排斥を逃れた人々でした。

ハンナはナチスの根源的な悪について、思考を重ねて行きます。

人間による人間の無用化。人間の尊厳の崩壊。それは理解を絶する「決して起こってはならなかった」ことであり。その事態を直視することは地獄をみるようなものだったのです。

その現実に対して前もって考えを巡らしておくのではなく「注意深く直面し、抵抗すること」であった。
従来使用してきたカテゴリーを当てはめて納得することではなく、既知のものと起こったことの新奇な点とを区別し、考え抜くことが必要なのです。

全体主義の悪の根源について、思考します。

人々を人間として「余計な者」にすること、多様でそれぞれが唯一無二の人々が地上に存在するという人間の複数性を否定することこそが、全体主義の悪であった。

全体的支配は、人間の人格や尊厳をすべからく破壊し、無限に多様な人々を交換可能な「かたまり」にした。全体主義は、その首尾一貫性を維持するために多様な人間たちを「余計者」にしたのである。

最晩年のHannah Arendt
最晩年のHannah Arendt

人々の関係性存立するあいだの世界が失われた砂漠的状況は、本来ならば人々を苦しめる状況であるのだが、
近代心理学は「砂漠」が関係の枯渇にではなく人間自身の中にあるとみなし、世界喪失的生活条件に人間を適応させようとした。
苦しい中で判断しつつ砂漠を人間的なものに変えようとする力が失われる危険性がある。
もう一つの危険性は「砂漠の生に最も適した政治形態」である全体主義が展開することである。
人と人との間の行為の空間、あるいは共通の世界が失われる中で、相互に孤立した人間が全体主義運動へと組織化されていくということです。

人間の孤立化、人間関係の砂漠化のなかで全体主義が進んでいきます。しかし、この全体主義の流れに抵抗する役割を担うのがオアシスです。オアシスを持つことが、新しい時代に、本当に重要な役割を担っているのです。

政治的条件から独立して存在する生の領域を、砂漠の中のオアシスと呼び、このオアシスが損なわれるならば、われわれはどうやって呼吸すればいいか分からなくなってしまい、人間的な生のためには「オアシス」の使い方を知らねばならないということなのです。

若き頃のHannah Arendt
若き頃のHannah Arendt

ハンナはユダヤ人としての出自です。だから正直にこんな言い方をしています。

反ユダヤ主義のあからさまな敵意より、尊大に、感謝を要求したげな庇護者の身ぶりのほうが、ぐっさっとくるのです。

ユダヤ人であること、ユダヤ人として帰属することについて、ハンナはこう言っています。

「ユダヤ人」ということで、わたしが意図したのは、歴史的な負荷あるいは特徴をもった実在ということではなく、政治の現在形を認識することに他ならなかったのです。
そこで命じられていた帰属のかたちは、まさしく個人的アイデンティティーの問題を、匿名という意味で、すなわち無名という意味で決定づけていました。

「ニューヨーカー」誌へのルポルタージュ「イェルサレムのアイヒマン」(1963年)の投稿から、非難の嵐に見舞われ、攻撃されるようになって、ハンナの闘いが始まりました。

「嘘に生きているあれほどの多くの人の一番痛いところを衝いた」と
われわれは悪魔ではなくアイヒマンという「つまらない男」によってこの犯罪が行われたことに耐えなければならないことにを、きわめて明瞭に伝えた。

「民族の娘」ではなく自分自身以外の何物でもない。自分が愛するのは友人だけである。

ケネディーの登場と人々の政治への関心の高まりに期待を抱いたが、その共和国は「警察国家」のような姿を取り始めていたのである。

アイヒマン(Eichmann)
アイヒマン(Eichmann)

アイヒマンを「悪の象徴」として論及されることを期待したシオニストたちを怒らせてしまった。
そして「悪の凡庸」「悪の陳腐さ」そのものが全体主義の悪の根源的なものであって、イデオロギーや結論ありきとした、思考を停止したところに全体主義の悪があった。

あなたは何も悪いことをしていない。でも、アイヒマンが出てからでは遅いのです。
そして、アイヒマンの芽をつむのは、何でもない時期に善の勢力を高める以外にないのです。

ハンナのよき理解者であったカール・ヤスパースが死んだとき(1969年)、ハンナは次のように追悼を送っています。

人間のもっともはかないもの、しかし同時にもっとも偉大なもの、つまりその人の語った言葉や独自の身ぶりは、その人と共に死んでいく、でもそれらこそ私たちを必要とし、私たちが彼を忘れないでいることを求めているのです。
追憶は死者との交わりのなかでおこなわれ、そこから死者についての会話が生まれ、それがふたたびこの世に響きわたります。

実存主義らしい表現です。生命輪廻の概念がない人々にとって、追悼の言葉として表現しています。
また、ハンナは権力について考察し、こう言っています。

草の根から成り立つものへのシンパシーsympathyです。「権力は人民にあり」とも言えるものにほかなりません。
つまり上からではなく下から生まれる権力です。

全体主義はナチスだけではありません。軍国主義の日本も全体主義であり、実はアメリカのマッカーシズムも全体主義です。
身近に潜む全体主義を見抜くには、自ら思考する力を養うことです。思考を諦めない意思をもつことです。

彼女の思想を教科書とするのではなく、彼女の思想に触発されて、私たちそれぞれが世界をとらまえなおすということこそ重要です。

自ら考えること、思考することを諦めてしまったときから、自分自身からも「見捨てられる」Verlassenheit(独)、Loneliness(英)という孤立化に陥ります。さらに組織的に根こそぎ見捨てられる世界が、現代社会でもあり得ます。

意外に思うかもしれませんが、ハンナ・アーレントの思考は、
創価学会の考えと一面酷似しています。「創価学会」それは人間尊厳を掲げた人間革命の闘争の異名です。
「何のためか」を常に自問し続ける精神こそが創価の精神です。
それは生命哲学といってよい領域での精神活動です。
その創価の哲学は真の理解が得られず、反ってさげすまれ反感を買ってきたのも事実です。創価の歴史は、迫害と中傷の歴史でした。でも、創価の正義を叫び続けてきました。
座談会というオアシスを基本にしてきた草の根の活動こそが創価学会の活動です。創価の世界では一人が大切なんです。その「無冠の友」こそ栄誉なんです。

創価の精神を基調にして、ハンナ・アーレントを読むと、創価の正義を今一歩深く理解することができます。

創価学会員の方にお薦めしたい本です。本は苦手なら映画(DVD)を見ることをお勧めします。

ハンナが言う、「悪の凡庸」「悪の陳腐さ」そのものが全体主義の悪の根源的なもの、と言った意味が分かるように思えるでしょう。