座右の銘と御書の一節

誠実・忍耐・希望

生命は幸福の為に我々に与えられている。
だからこそ人を幸福にするために我が生命を使うのだ。
力があれば、そして誠実があれば、忍耐があれば、希望があれば、絶対に負けない。
武器は誠実な対話しか無い。
誠実な言葉が完全に無駄になったことはない。

 

 

個人的に思い出がある御書の一節を書いてみました。
10年経っても20年経っても忘れない一節です。 (緑色の文字はモリパパが書いた部分です

御書(Page) 個人的に思い出がある御書の一節
生死一大事血脈抄(p.1338) 在在処仏土 ざいざいしょぶつど常与師倶生じょうよしぐしょうよも虚事そうらはじ。
少々解説:「在在諸の仏土に常に師と倶に生まれん、若し法師に親近せば速やかに菩提の道を得ん、是の師に随順して学ばば恒沙の仏を見奉ることを得ん」(秋元殿御書P.1070)
にある通りで、師弟不二のことを言ってます。「また学会員になちゃうんだ~」といった受け身じゃなくて、「よし!また必ず先生と一緒に戦おう」といった積極的な意味があるんだと思うんです。
生死一大事血脈抄(p.1338) 相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給え、生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ、煩悩即菩提・生死即涅槃とはこれなり、信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり、
ここまで言われると「もう~、学会活動しなくちゃ」 といった気分になるんです~~~
崇峻天皇御書(p.1174) 一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽菩薩品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは、 いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ。
まっこと、その通りで「人の振る舞い」として「反省なかりしか?」と思うばかり。
四条金吾殿御返事(p.1151)
八風抄
賢人は八風と申して八のかぜにおかされぬを賢人と申すなり、 うるおいおとろえやぶれほまれたたえそしりくるしみたのしみなり、ををむねは利あるによろこばず、をとろうるになげかず等の事なり。
・・・・これができんのです。 気が付けば八風に翻弄されっぱなしであります。
食物三徳御書(p.1598) 譬へば人のために火をともせば、我がまへ明らかなるがごとし
この御書、以外と目立たない御書なんで「どこの御書だったけ~?」とよく探すんですよね。 “おお!人生の行き方の極意”、あれ?・・・歳を取ったかな~。
百六箇抄(p.896) 又、立つ浪・吹く風・万物に就いて本迹を分け勝劣を弁ず可きなり。
実に奥が深い。何が本質で、何が影か?所詮我々には解らないのですが、そういった深い所から本質を観ることが重要だと言うことぐらいは、何となく分かるような気がします。
四条金吾殿御書(p.1143) ただ世間の留難来たるとも・とりあえ給うべからず、賢人・聖人も此の事はのがれず、ただ女房と酒うちのみて南無妙法蓮華経と・となへ給え、苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合わせて南無妙法蓮華経とうちとなゑさえ給え、これあに自受法楽にあらずや、いよいよ強盛の信力をいたし給え
「ただ女房と酒うちのみて」だけが記憶に残る悲しいモリパパですが、 まーイイことにして「題目か~~~!」
立証安国論(p.25) 蒼蠅そうよう騎尾きびに附して万里を渡り碧羅へきら松頭しょうとうに懸りて千尋せんじん
これまた、将にモリパパに頂いた御書であります。 学会にくっついているだけで、大したことしないままここまで来ちゃいました。
御義口伝(p.725) 一念三千も信の一字より起り三世の諸仏の成道も信の一字より起こるなり、この信の字
元本の無明を切る利剣なり
これそこ知恵の源泉であり、体験と道理に基づく「信」こそ、信仰の王道だ
松野殿御返事(p.1386) 南無妙法蓮華経と唱へ、退転なく修行して最後臨終の時を待つて御覧ぜよ、妙覚の山に走り登つて四方をきつと見るならば・あら面白や法界寂光土にして瑠璃を以つて地とし・金の繩を以つて八の道を界へり、天より四種の花ふり虚空に音楽聞えて、諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき娯楽快楽し給うぞや
山を駆け上がって、見渡す限り、燦然と輝く世界。見つめる自分自身も輝いている。
妙なる風がふき、心地良い音楽が聞こえる。-本当に素晴らしい世界である。
信心を貫き通した人の生命は、皆、絶対に幸福に輝くのだ。これが大聖人のお約束なのだ。

「人間革命」「新人間革命」など池田先生の箴言

何回読み返しても、心に残そうと思う一節がある。池田先生の
生命の本質に迫る鋭い指導が心の支えになっている。
生命の本質を知って生きるか、知らずに生きるかでは、その一生には大きな違いがある。大切な一生のために!

書名(Page) 感動・納得の一節
「新人間革命」第19巻「陽光」p.199 生きるということは、戦うことである。細胞も戦っている。血液も戦っている。人生も闘争だ。社会も闘争だ。 文豪ゲーテはうたう。「私は人間だったのだ。そしてそれは戦う人だったということを意味している」
私たちは、何のために戦うのか。自身の幸福のためである。何があっても挫けない、自分自身を築くためである。人間革命のためである。また、人々の幸福のためである。社会の繁栄と平和のためである。
アメリカの思想家エマソンは明言する。「他に奉仕し、人間全体の幸福に何ものかを寄与しようとする意志、それが人生の本質なのである。」 私たちは、妙法を持っている。末法に一切衆生を救うために出現した地湧の菩薩である。 まさに広宣流布という「人間全体の幸福」の実現こそ、私たちの使命だ。
勝利のためには、何よりも己自身を制覇せねばならなぬ。牙をむく獰猛な敵も、所詮は自分の心の影にすぎない。
自身に勝つのだ! 臆病に勝つのだ! 諦めの心に勝つのだ! 自身に打ち勝ってこそ、大いなる「前進」があり、燦然と「勝利」の陽光は輝くのだ。
池田大作名言100選
「はじめに」(池田大作)
21世紀を代表する歴史学者のアーノルドトインビー博士に、私は座右の銘を尋ねたことがあります。 博士は、即座にラテン語の言葉を挙げて下さいました。 「ラボレムス Laboremus」(さあ、仕事を続けよう)
ローマ皇帝セプティミウス・セウェルスは、日々、兵士たちにモットーを与えることを 日課としていました。この言葉は、西暦211年、遠征の途上、病に倒れた皇帝が、 まさに死なんとするその日、最後の指示として叫んだ指針とされております。 トインビー博士ご自身、八十代に入って、なお溌剌と、最後のベロニカ夫人とご一緒に「ラボレムス」 を合い言葉に、毎朝、人類の未来のための尊い探究を開始されていた姿が、忘れられません。
2004年
代表者会議での先生指導
祈り、それは、あきらめない勇気だ。自分は無理だと、うなだれる惰弱さを叩き出す戦いだ。現状は変えられる!必ず!確信を命の底に刻み込む作業だ。
祈り、それは恐怖の破壊なのだ。悲哀の追放なのだ。希望の点火なのだ。運命のシナリオを書きかえる革命なのだ。自らを信じよ!卑下するなかれ!卑下は仏法への違背だ。胸中の仏界への冒涜だからだ。
祈り、それは我が生命のギヤを大宇宙の回転に噛み合わせる挑戦だ。宇宙に包まれていた自分が、宇宙を包み返し、全宇宙を味方にして、幸福へ幸福へと回転し始める逆転のドラマなのだ。
人間は人間、その人間の可能性の扉を次から次へと開いていくキー(鍵)が祈りなのである。
出典不明 有名な人道主義の作家であるアメリカのストー婦人は人生の厳しい試練に挑戦する友を激励してこういいました。
「身体きわまってもう一刻も耐えられないという心境になっても決してあきらめてはいけません。情勢が一変するのはまさにそこからです。」と、その通りです。
いわんや、祈りとしてかなわざるはなしの妙法をたもった皆様に恐れるものは何もありません。
戦えば必ず諸天善神が動き出します。広布に挑み行く婦人部にはみに影が添うがごとく、 三世十方の仏菩薩、はたまた梵天、帝釈が厳然と現れ守りに守ります。
随筆「新・人間革命」
1998.1.4
”第三の青春”を勇猛精進で
・・・十歳まで…平凡な漁師(海苔製造業)の消炎時代、二十歳まで…自我の目覚め,病魔との戦い、三十歳まで…仏法の研鑽と実践.病魔の打破への闘い、四十歳まで…教学の完成と実践の完成、五十歳まで…社会への宣言、六十歳まで…日本の広布の基盤完成・・・(中略)・・・七十歳まで…新しき人間主義の哲理を確立、八十歳まで…世界広布の基盤完成なる哉、このあとは妙法に説く不老不死のままに、永遠に広宣流布の指揮を取ることを決意する。(中略)我が生涯は、広宣流布への大いなる旅路。眼前には、二十一世紀の希望の山並み。”第三の人生”とは”第三の青春”の異名である。「日に日に新たに、また日に新たに」(「大学」)この一年も勇猛精進の日々をと、断固誓う。
聖教新聞「今日も広布へ」
2012.6.10
わたしたちは何のために生まれてきたのか。「人生を楽しむためだ」と仏法は教える。
どんな時代にも、深刻な苦しみがある。なかんずく、青春時代は、悩みの連続だ。
しかし、まっすぐに信心を貫いていけば、法華経に「衆生所遊楽」とある通り、「生きていること自体が楽しい」「何をやっても楽しい」という人生になる。必ず、なる。「祈りとして叶わざるなし」のご本尊であるからだ。
日蓮大聖人は”一遍の題目にも、限りない功徳がある”と門下のに教えられた。
無限の宝は、我が胸中にある。生命それ自体が、宝の集まりである。その宝を、自由自在に引き出すのが「信心」なのである。
自分だけっではない。人も幸福にしていける。社会も、そして世界も、善の方向へ、平和の方向へと変えていける。信心こそ、若き友に贈る最高の財産なのである。